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それでは、駅弁はいつどこで始まったのでしょうか。今度はそれをお話しします。

@ どれが本当なの? 駅弁第1号。。。  

@明治18(1885)年7月16日・宇都宮駅説・・・梅干入りごま塩握り飯にタクアンを竹皮に包んでホーム売り。5銭。

A明治10(1877)年頃・大阪(梅田)駅説・・・乗客が車外で購入。西南戦争で官軍輸送の需要から?

B明治10(1877)年7月・神戸駅説・・・立売弁当販売。西南戦争で官軍輸送の需要から?

C明治18(1885)年7月16日・小山駅説・・・海苔、油揚げ、玉子の「翁ずし」販売。5銭。

D明治16(1883)年7月28日・上野駅説・・・「上野停車場構内弁当料理ふぢのや」という記録文書あり。

E明治16(1883)年7月28日・熊谷駅説・・・熊谷駅開通の日に「すしとパンを売って・・・」という記述あり。


F明治17(1884)年5月1日・高崎駅説・・・昭和31年の中央会発行「駅弁当のしおり」に記述あり。

日本で初めて鉄道が開通したのは明治5(1872)年。現在より百年以上も前のことです。少なくとも駅弁が誕生したのはこれよりも後ということになりますが、現在いろいろとある説についてまとめたものが上の@〜Eです。

このうち、通説(一般に広く認められている説)となっているのは@「宇都宮駅説」です。これは宇都宮駅への鉄道開通初日から白木屋旅館(後の「白木屋ホテル」)が売ったという説です。しかし、元の資料は戦争の空襲で焼失してしまったということで、戦後、白木屋への聞き取りによって他の人が著した書物での記述ということですから、絶対に確かだというわけではないようです。また、C「小山駅説」についても宇都宮駅と同じ日に開業していますので、可能性がないとは言い切れません。ここの駅弁屋さん「柏屋」が雇っていた「おきな」という女中さんが寿司を作るのが上手だったので、いつしか「おきな寿し」と言われ、小山駅弁の「翁ずし」になったのだというエピソードまであるくらいです。

             
       ※上の画像は宇都宮駅「駅弁発祥の地にぎりめし」。宇都宮線120周年記念で2005年8月に復刻販売されました。

B「神戸駅説」は昭和32(1957)年に神戸駅から発行された『神戸駅史』の記述によるものだそうです。A「大阪(梅田)駅説」とあわせ、明治10(1877)年2月には西南戦争(西南の役)がおこり、9月24日に西郷隆盛が自刃するまでの間、官軍は神戸港から船で兵隊を九州に輸送したため、大阪駅や神戸駅には派遣途中の兵士が多く、駅弁の需要があったのではないかとする説です。しかし、この説が仮に本当だとしてもそれは一時的なことで、西南の役が終わると駅弁の需要もなくなってしまったのではないかという疑問も残ります。

D「上野駅説」E「熊谷駅説」については、明治16(1883)年12月に日本鉄道株式会社から発行された『改正日本鉄道規則及諸賃金明細独案内』という公式な書物にも記述がありますから、上の@〜Cまでの説よりは情報の信頼性が高いということになります。これによると、上野駅も熊谷駅も同じ日に開業していますが、すしを駅で販売したとされる熊谷駅の弁当屋については「停車場(駅)構内」ではなく、「駅前」であるという記述があり、上野駅に関しては「上野停車場構内弁当料理ふぢのや 濱井啓次郎」いう名前が出ていて、唯一「停車場」の「構内」ということになっています。停車場=駅の構内で売られる弁当だから「駅弁」だという前提からすれば、公式文書に書かれたD「上野駅説」は@〜Eの中では一番信頼性の高い説だということになるでしょう。

F「高崎駅説」については、私の所有する国鉄構内営業中央会「祝東海道線電化完成 駅弁当のしおり」(昭和31年11月19日配布開始と思われます)に「駅弁当の始まりは明治17年5月高崎駅、食堂車は明治32年5月山陽鉄道・・・」という記述があり、その出所が国鉄構内営業中央会の冊子とあっては、無視するわけにもいきません。少なくとも当時の公式見解は「高崎駅説」ということだったのでしょう。「たかべん」の会社案内にも「明治17年創業」とありますし、歴史のページにも記述があります。しかし、昭和33年国鉄構内営業中央会発行「会員の家業とその沿革」にはそのことは強調されていないようです。きっとこの2年間で「宇都宮説」へと移行する何かがあったのだろうと推測されます。

しかし、個人の意見ではなく公式文書である、という信頼性の高さがそのまま事実と結びつくという保証はありません。いつどこで駅弁の第1号が売られたのかということは今でも謎のままなのです。しかし、おおよその時代として明治10年代ということについては明確になったはずです。つまり、今から130年くらい前に駅弁は誕生したということになるのです。

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※上の@〜Fまでの説について、それぞれの説が成り立つ根拠と、それでも論駁(ろんばく)されてしまうという欠点をまとめてみよう。


A鉄道の開通に合わせて駅弁も広まった明治時代  

明治5年に日本で初めて新橋〜横浜が開通した鉄道でしたが、明治22(1889)年7月1日には東京〜神戸の東海道本線が全通するなど、鉄道は全国に広がりを見せていきます。それに伴って、駅弁の販売や列車食堂の営業も広がっていったのです。
たとえば明治21(1888)年、国府津(こうづ)駅では東海道線で初めて駅弁が売られ、翌年には姫路駅で初めて幕の内弁当が売られました。また、明治23(1890)年には一ノ関、黒沢尻(北上)の両駅で初めての特殊弁当であるのり巻きの「すし」が売り出されました。そして、明治32(1899)年には初めての食堂車が走りました。

  
↑明治21(1888)年、国府津駅で売られた東海道線初「握飯駅弁」の再現(画像提供・東華軒
↑明治22(1889)年、姫路駅で売られた日本初の幕ノ内弁当の再現(画像提供・まねき食品

明治20年前後の物価を今と比べてみると「お米5s」が現在で約3000円程度として、明治時代は約30銭でした。
天丼で5銭、町のお弁当屋さんの仕出し弁当3銭5厘、もりそば1枚1銭の時代です。

さて、明治18年に白木屋旅館が宇都宮駅で売り出した「おにぎり2個+タクアン」が5銭ということは、現代の価格にして600円、これは高いですよね。つまり、駅弁を食べられるということは、中産階級の証しでもあったわけです。白米はおろか、ヒエ、アワなど、今では小鳥のえさになっているものや麦などの穀物を食べている人たちがたくさんいた、そんな時代でした。

当時の駅弁の掛け紙(お弁当にかけてある、弁当の名前などが書かれた紙、ラベル)は機械による印刷ではなく、手作りの木版刷りでした。皆さんが美術の時間に彫る版画と同じです。版木を彫って、和紙をあてがって、バレンで刷り込むというものです。ですから、1色かせいぜい2色の素朴なものでした。それが、明治の末期から大正、昭和の戦前くらいまで石版印刷へと変わり、繊細で美しいラベルへと変わっていきます。

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※明治時代から現在に至るまでの物価の変遷を調べてみよう。

B大正モダニズムから軍弁の昭和戦争時代へ  

大正3(1914)年、第一次世界大戦が起こり、4年後に日本は戦勝国となりました。この時代はいわゆる「大正ロマン」「大正モダニズム」と言われる時代で、西洋文化と日本文化の混じり合う、新しい文化が花開きます。日清、日露の両戦争に勝利し、世界大戦にも勝ったことで、それまで暗い封建制度を経験してきた人々の自由意識が高まりを見せた時代です。駅弁の掛け紙のデザインも21世紀の現代から見て決して古くない今風のデザインの傑作ラベルが多く見られます。

    ※昭和9年当時の駅弁販売駅一覧を見る→こちら

戦争に勝って樺太や朝鮮半島などの大陸方面に勢力をのばす中で、朝鮮満州南満州鉄道)などにも駅弁が登場します。戦勝国となったことで好景気となりましたが、その反面で物価も上昇し、それは駅弁の価格にも影響を与えました。おかずとごはんの2段重ね弁当である上等弁当(「上等御辨當」)の価格は明治末期で25銭程度でしたが、大正時代に入って30銭に上がり、大正8年頃には40銭になりました。その後、一転して不景気となって価格は35銭に下げられます。

昭和に入ってからは昭和4(1929)年の世界恐慌のあおりを受け、不況の中でさらに30銭まで値下がりします。しかし、昭和12(1937)年の日華事変から泥沼戦争状態となって次第に主食の米や食糧が不足欠乏しはじめました。政府は節米政策を推し進め、昭和15(1940)年に米穀統制令が出ます。続いて砂糖の配給統制、飲食店での米飯提供禁止などを経て、駅弁も米飯に雑穀を混入したり、「そば海苔巻き」「おいも弁当」、蒸しパンなどの代用食が増えてきました。また、駅弁の掛け紙には戦時標語(戦争の意識を国民に植え付けるためのスローガン)が多く見られるようになってきます。昭和16(1941)年の第二次世界大戦の頃には戦争インフレで再び駅弁は40銭に値上がりし、終戦直前の昭和20(1945)年7月からは「外食券制度」でしか駅弁が買えなくなってしまいました。また、戦争時代には出征先に向かう兵隊の鉄道輸送時に食事として提供する軍用弁当、いわゆる「軍弁」が見られます。

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※「大正ロマン」「大正モダニズム」の特徴について調べてみよう。
※日本が第一次世界大戦に勝利してから第二次世界大戦に敗戦するまでの流れを調べてみよう。
※戦争による食糧事情の悪化に対して国がとった政策やそれによる人々の暮らしへの影響について調べてみよう。

C駅弁受難の戦後混乱時代  

戦争中の食糧難とインフレは戦後になってもしばらく続きました。1946(昭和21)年には駅弁業者の集まりの団体である社団法人日本鉄道構内営業中央会が設立されましたが、その翌年、昭和22(1947)年4月には外食券普通弁当が5円、外食券特殊弁当が10円、ごはんがなくおかずだけの料理弁当が10円、鉄道パン2円、茶50銭となってしまいます。さらに、5ヶ月後の9月には外食券普通弁当が10円、外食券特殊弁当が20円、料理弁当が10円、鉄道パン5円と、概ね2倍に値上がりしてしまいました。そして、その後も昭和26(1951)年頃までぐんぐんと値上がりしていきます。

やっと昭和25(1950)年、業務用小麦粉が特別配給となり、パンやうどんは外食券なしでも自由に買えるようになりました。また、昭和27(1952)年になると、駅弁業者が米の生産地と交渉して屑米(等外米)の配給を受け、主食である米の入った弁当「等外米お弁当」を自由に売り出します。これによってなんとかごはんのある駅弁らしい駅弁が復活ということになったのでした。なお、外食券制度は実質的には昭和29(1954)年で用をなさなくなり、食糧事情が好転した昭和31(1956)年に廃止されました。

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※「外食券制度」について調べてみよう。

D高度経済成長時代の駅弁 〜その最盛期〜 

ようやく戦後の混乱がおさまり、社会全体が落ち着きを取り戻した頃、旅行ブームがおとずれました。昭和31(1956)年には東海道本線の全線電化が完成、昭和33(1958)年には特急「こだま」にビュッフェ車が登場し、横川駅では「峠の釜めし」が売り出されました。そして、昭和39(1960)年の東海道新幹線開業。高度経済成長の波に乗り、駅弁もこの頃より多様化し、特殊弁当が多く売り出されるようになり、駅弁全盛の時代を迎えます。駅弁業者も昭和31(1956)年がピークで、昭和38(1963)年頃までは全国で400を超えていました。全国各地の比較的大きな駅では、到着した列車の窓を開けて立ち売りの販売員から駅弁を買うという姿が至るところで見られました。

ところで、全盛期には駅弁はどれくらいの数が売れていたのでしょうか。例えば横浜駅の「シウマイ御弁当」は当時100円で販売していましたが、1日に約4000本(個)も売れ、持ち帰り用のシウマイと合わせると25000本(個)近くも売れたということです。地方ローカル駅の「幕の内弁当」ですら1日に数百本も売れた(現在ではその10分の1も売れないところが少なくない)というからオドロキです。今の時代は駅弁よりも安価なファーストフードのお店や仕出し弁当店などがありますから、とてもこんなに売れていないということははっきりしていると思います。

また、デパートでの駅弁販売も大阪で昭和28(1953)年に始まって以来、昭和35(1960)年頃より駅弁大会として全国に広がりを見せるようになりました。現地に行かなくても駅弁が買えるというのは、駅弁にとって新たな可能性を示したできごとでした。

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※この当時は販売していたが、現在では販売していないという駅弁について以下のページで調べてみよう。
  駅弁ノスタルジア東日本   駅弁ノスタルジア西日本

E駅弁の今 〜激動の中、様変わりする「エキベン」〜 

昭和39(1964)年の東海道新幹線開業は、確かに鉄道高速化時代の幕開けを告げました。しかし、その一方ではのんびりと鈍行列車で旅をしながら駅弁を食べる、というごくあたりまえだった行為が廃れていくことになりました。開業した東海道新幹線ホームで駅弁の立売をするのは危険だという理由で禁止されたことこそ、駅弁が時代遅れの「過去の産物」として追いやられる転機となったのではないでしょうか。

在来線においても特急の停車時間が短くなり、窓も開かなくなったことで、駅弁がホームでは買いにくくなりました。また、特に昭和50年代には自家用車の増加による鉄道離れ、外食産業の発展と飽食時代の到来、安価なファーストフードやコンビニ弁当の普及などによって駅弁を買う客が激減し、駅弁業界は経営面で苦境に立たされる時代を迎えます。それは、幹線とローカル線との二極化現象の中で、特にローカル線沿線の駅弁屋を直撃します。実際に、廃業したり、駅から撤退して仕出し弁当だけに業務を縮小したりして、消えていった駅弁屋もたくさんありました。詳しくは駅弁ノスタルジア東日本駅弁ノスタルジア西日本を参照して下さい。

しかし、駅弁業界の衰退を食い止めようと、駅弁屋さんがいろいろな工夫を試みたのも事実です。そしてそれは現在でも続いています。その工夫とは、
 
 @地域の産物や特色を生かした名物となる特殊弁当づくりの推進。
 A経営の多角化、効率化。
 B駅弁大会や各種イベントへの参加、通信販売の開始。
 C客のニーズに合わせた加熱式や保温式駅弁、キャラクター駅弁、提携駅弁などの開発。

などがあると思います。

@については、幕の内よりも特殊弁当に力を入れる駅弁屋が増え、その土地ならではの駅弁が多く生まれ、それに伴って駅弁の質も向上しました。仙台駅「牛たん弁当」新津駅「ひらめずし」などは、その土地ならではの食材を生かした比較的新しい駅弁でありながら、押しも押されぬ名物駅弁となっています。

Aについて。たとえば新潟県直江津駅のホテルハイマートは駅弁を製造する傍ら、ホテル経営をしています。また、栃木県黒磯駅のフタバ食品はアイスクリームやマロングラッセの製造で有名です。このように、駅弁だけでなく、多くは仕出し弁当を手掛ける傍ら、ドライブイン、外食産業など、さまざまな分野に経営を多角化している駅弁屋が増えてきました。この背景には駅弁製造と販売だけでは経営が苦しいという事情があります。
また、駅弁の製造過程も手作りから機械化(「駅弁工場見学記」を参照)へと変貌を遂げ、効率化をはかっている駅弁屋が増えています。

Bに関して、駅弁大会が始まった頃は一部の老舗百貨店が正月に催す実演(その場で駅弁を製造実演して販売)中心のイベントに過ぎませんでした。しかし、1990年代から全国のスーパーの客寄せイベントとして急激に拡大し、現在では輸送(宅配便などで前日に製造されて送られてくる)駅弁が中心の駅弁大会のほうが多くなっています。どこの会場でもたいていは盛況で、売り切れ続出しています。駅売りが不振でも、冬場に駅弁大会に出稼ぎし、年間売り上げの大半を稼いでいる駅弁業者もあるほどです。
また、最近ではホームページなどを利用して通信販売をする駅弁業者が増えました。このように、駅弁を旅先で買わなくても、自分の街に来た駅弁大会や、自宅にいながらにして買い、味わうことができる時代に変わりつつあるのです。

Cについて、冷めても美味しいのが駅弁とは言っても、価格の安いファーストフードなどに対抗するには内容の質だけでは勝負できません。客の心をつかむ工夫の一つとして過熱式駅弁が挙げられます。これは昭和63(1988)年の新神戸駅「あっちっちすきやき弁当」が最初だと言われています。いつでもどこでもひもを引けば、10分程度待てば温かい駅弁が食べられるというのは斬新なアイデアでした。なお、保温式の駅弁もあります。
キャラクター駅弁も盛んになってきました。以前は「桃太郎」や「金太郎」など、おとぎ話のキャラクターが見られる程度でしたが、現在ではハローキティ(札幌仙台高崎東京小田原敦賀宝塚岡山小倉など)を中心に、ウルトラマン桃太郎伝説アンパンマンなどのキャラクターも見られます。また、プロ野球の応援(札幌仙台千葉大阪甲子園口折尾など)と結びついた駅弁、テレビ番組(一ノ関熱海など)と結びついた駅弁、町おこしや村おこしの期待を背負った駅弁など、さまざまな駅弁が売られるようになってきました。
また、コンビニで買うお弁当などの「ファーストフード」に対して、駅弁は「スローフード」の代表格として、安全で手間暇かけて作られる食品の代表格であるという主張がなされるようになってきています。無添加を売りにする駅弁や素材にこだわった高級駅弁栄養のバランスを考えた駅弁などが次々と販売され、さらに価格も300円程度から1万円に至るまで、客のさまざまなニーズに応えようと企業努力をしています。また、ついにコンビニと結びついた駅弁も生まれました。

こう考えると、駅弁は今やただ駅で待っているものではなく、駅から飛び出して私たちに手招きをする時代に様変わりしているかのようです。つまり、駅で旅行者のためだけに売られていた「駅弁」は、現在ではビジネス客やスーパー、通販での買い物客など、多方面に市場を拡大する傾向にあり、本来の意味が薄れた「エキベン」となって、全く新しい食文化として進化していくような気さえしています。それが良いのかどうかは論じませんが、転機であることだけは確かなようです。

  
↑日本一高価な駅弁。松阪駅「極上松阪牛ヒレ牛肉弁当」10500円。(あら竹商店

かくして、駅弁にとって激動の時代である今、消える駅弁・駅弁業者がある一方で、新たに誕生する駅弁・駅弁業者もあり、今後、まだまだ駅弁が淘汰されていく状況は続きそうですが、例えば富山駅「ますのすし」横川駅「峠の釜めし」のように、駅弁がその地方の名物となりえたとき、末永く伝統の食文化として残っていくことでしょう。それを大いに期待したいと思います。


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