「昭和14年11月24日。午前6時仙台出発。征途に着く。」 東北本線仙台駅。伯養軒? 掛け紙は左半分がありませんが、描かれている島はおそらく松島でしょう。これから戦地に赴くこの兵士の目に日本三景のひとつであるふるさとの景色はどのように映ったのでしょうか。テレビでよく見る、ホームの上で親戚や近所の人たち一同が「○○君、万歳!!」と声をかけて兵士の乗った列車を見送ったのでしょうか。 |
「昭和14年11月25日。朝の有久。」 東海道本線米原駅。 おそらく夜行列車に揺られて富士山も見ぬまま米原駅まで移動したのでしょう。 ところで戦闘機の上に並行して飛んでいる鳥は「金鵄(きんし)」という「トビ」か、はたまた「鴉(からす)」別名「やたがらす」か、気になるところです。なお、この飛行機は戦闘機でなく形状からドルニエ・ワール飛行艇にみえると指摘する方もいらっしゃいます。大阪−上海線などに導入された有名艇で、ルフトハンザは南米郵便線に使用していたそうです。 |
山陽本線姫路駅。 右の掛け紙には日付の書き込みはありませんが、おそらく昭和14年11月25日の昼食だったのではないでしょうか。 「国民精神総動員」「尽忠報国」「堅忍持久」という戦時標語の活字が躍っています。 |
「中支戦線三ヶ年。帰還に・・・。」 鹿児島本線門司駅か。 昭和17年7月7日というのが支那事変5周年に当たります。中国大陸で三年に及ぶ戦線を体験し、やっと帰還するという時に食べた駅弁の味はどうだったでしょうか。再び内地で駅弁を食べられた喜びはあったでしょうが、食糧が底をつき駅弁の内容も本当に質素で、太平洋戦争が勃発して戦局はまだ悪くはない頃なのでしょうが、敗戦を予感させる弁当の内容だったのではないでしょうか。「貯蓄報国」、「防諜徹底」「南方建設」「米英撃退」の標語もむなしく響いているかのようです。 しかしながら、無事に帰還して嬉しかった(当時は表に出せない本音ですね)ことは紛れもない事実だったでしょう。この兵士のように無事に帰還できた人たちが果たして何割いたでしょうか。 |