新潟県在住の貨車さんよりコメントをいただきましたので紹介します。
「昭和12年の日中戦争勃発いらい、食料・マッチが配給制になり、ガソリンの配給・統制によりあちこちで「木炭車」が走り、
鉄道の需要が伸びます。都バスは最終的には都電に牽引されるカタチに。戦後GHQ払い下げのGMC・CCKW353「ジミー」トラック改造バスがこれを牽引して「親子バス」。
さて駅弁も国産米から南京米、外米、そして麦半々、満州とかでコーリャン(満鉄沿線にひろがるのがコレ)、かぼちゃ、さつまいもに。シンガポール陥落時には「特配」があったんですが。
ついには「ヤミ」が横行するんですね。
あれだけの穀倉地帯で何で米がいきわたらなかったか?
@軍用にほとんど持ってかれた。(もう「米騒動」が起こせる状態ではなかった)
A末期には貨物列車がしばしばやられた。満州・大陸からの船は沈められた。
かとおもいますが、昭和19年には日本軍占領地のフランス領インドシナことベトナムのタイニン省では日本軍が米を持っていき、ついに飢餓事件が・・。
さてこんななか「パン」が登場(コレはポルトガルだったかの言葉だそうで、同国は中立国)します。といってもあたりまえですが小麦粉でない。一大生産地満州からの輸送船は沈められるし。とうもろこしで作られました。
この代用パンは「非常食」として「駅弁」がわりにうられています。
「駅売店」はついに売るものが払底してしまい、ホウキ、チリトリ売ってたとか。「国民食堂」のぞうすいは箸のたつことが少なくなる(それだけ米が入ってない)
敗戦。
戦後、「米よこせデモ」でマッカーサー元帥は本国に「至急5万トンの食糧よこせ。できなくば5個師団送れ」とまでいってます。
日系人が「ララ物資」をおくってくれたのもこのころでした」