新潟県在住の貨車さんよりコメントをいただきましたので以下を参考にして下さい。
当時奉天は大連-新京の満鉄本線、安東へいく安奉線、京奉鉄道の分岐点でした。ただ、日本人は「康徳」はあまり用いる事がなかったようです。なにせ満州国開拓に入った日本人開拓団ですら「満州国民」にはならなかった。日本人をとおしつづけたんですね。日本人官僚自身が「康徳」使わなかった例すらあります。
「按山」は満鉄の誇り「昭和製鋼所」のあったところ。「撫順」はいまも「露天掘り」のデカイ炭鉱があります。ここではかつての満鉄ディーゼルカー「ジテ」編成が電車化されて活躍。そして李香蘭の生まれ故郷。しかし戦争末期には、奉天、撫順、按山は成都から飛んでくるB29に空襲されるようになります。そのため昭和20年8月9日のソ連参戦時の空襲を「米軍機」と思った人も。
北京へは山海関を抜けて天津、北京と続きます。かつて釜山からきた急行「大陸」はここから北京へ向うアジア最長距離の急行列車でいまも当時の展望一等寝台車が。姉妹列車「興亜」には展望車がありません。おなじく釜山からきた急行「ひかり」「のぞみ」はここから新京へ。むろん大連-新京間には特急「あじあ」急行「はと」が。のちに「あじあ」はハルピン延長。急行「はと」「ひかり」は戦争ドン詰まりのころでも休止になった特急「あじあ」「あかつき」の客車を使い最後まで運転。さて往時のパンフなどでは満州国国内の全てが満鉄、のようにも見えますが、満鉄本線と安奉線など以外は「満州国鉄」。しかし名前だけで、運行管理はすべて満鉄委託経営でした。北京近辺の「華北交通」も子会社です。
また当時は駅のホームで向こう側に停車中の貨物列車に、満鉄以外の朝鮮鉄道、満州国鉄、華北交通、また「青天白日旗」(中華民国国旗)をぬりつぶした「鹵獲貨車」もいたそうです。満鉄というと、福利厚生がメチャクチャ進んでいました。それに満映にヤマトホテル。今も残る、大連、奉天、新京の壮麗なヤマトホテル。それに旅順、ハルピン、吉林、上海ノホテルにコテージ的な夏季営業の黄金台と星ヶ浦。さらには「国鉄線」チチハルの「鉄道総局ホテル」。さらには黒龍江に、満鉄船が走っていました。「厚生船」といわれていたものです。
当時満州のだだっぴろいなかに(中国人から分捕った)開拓団がちらばっていましたが、その離れちゃっている人たちのために「移動巡回慰安列車」が運行されていました。古い客車を改造し、なかにいろんな生活用品、娯楽・嗜好品、さらに(満鉄御得意の)映画上映。李香蘭のとか。(のちに李香蘭自身、慰問の途中、専用列車に急遽「病院車」が連結され、傷病兵の慰問、ブロマイドにサインしてやった事がある、と書いている)それには「日本(リーベン)のだけれども」中国人(満人といわなければならない)もきて大好評であったと。おおむね、貨物列車に併結されて、各地を巡回。(戦後進駐軍にも「PX車」というこのテの車輌があったらしいのです。あの今の和光がPXでしたが、アレが動くんです。グレン・ミラーやデューク・エリントン、ベニー・グッドマンのジャズを鳴らして。)コレの船版が、「厚生船」でして、黒龍江に散らばる小集落に。コレがくると当たり前ですが「お祭り」騒ぎになります。「満鉄厚生船の最後」という本があり、これでは「厚生船」の船長とクルーがソ連参戦ののち「厚生船」を爆沈させて、ハルピン方面へ逃避行というものでした。
昭和13年6月23日18時。
戦前の調製印の場合、内地が午前、午後と12時間制の表示なのに対し、満鉄鉄道総局管内では24時間制の表示だったということでしょうか。
「四平街(しへいがい)」は当時の「瀋陽」。今の中国では「瀋陽(シェンヤン)」と呼ばれています。この駅は現在は「街」という文字が抜け、「四平」という駅になっており、吉林省四平市です。中国東北部の東北平原にあり、東に「撫順」、あるいは朝鮮方面、南に「鞍山」、そして北京方面、西は内モンゴルまで鉄路が続き、北はハルビンを経てロシア方面と、まさに交通の要所だったと思われます。
下はこの掛け紙の裏です。中国語でも書かれています。
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