「弁当」のルーツは?
ここは「駅弁」を学習する前に、「弁当」を学ぼうとするページです。
※しっかり学びたい人は『銀座の学校』サイトにある「駅弁は故郷風土の玉手箱・弁当を文化として見てみよう」を見てみましょう。
上ちゃん先生はもう少しわかりやすくお話ししてみます。
弁当を携帯食(持ち運びのできる食事)として考えるとき、食べ物を、
@箱に入れない場合、
A箱に入れる場合、によってルーツが異なりそうです。
まず、@の「箱に入れない場合」をみてみましょう。
「糒(ほしいい)」と呼ばれる携帯食は古代から
稲の栽培がはじまった弥生時代には、とれた米を蒸かして乾燥させたもの「糒(ほしいい)」を持ち歩き、水やお湯でもどして食べていたようです。たとえば「日本書紀」(奈良時代にできた日本で最も古い正式な歴史書)には、
「
糒(ほしいい)を衣(きぬ)の中に包みて坂田に到る。」
と出ています。「坂田」は地名です。「糒(ほしいい)」を布で包んで持ちながら歩き、坂田に着いた、と言うことですね。「糒(ほしいい)」とは「干し飯(ほしいい)」と同じことで、「乾飯(かれいい)」とも言います。「かれいい」は高校生の皆さんなら、古典の伊勢物語「東(あずま)下り」でおなじみですよね。
また、「万葉集」(奈良時代にできた日本最古の歌集)の中には、有間皇子(ありまのみこ)が詠んだ歌の中に、
「
家にあれば 笥(け)に盛る飯(いい)を草枕 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る 」
というのがあります。家では竹でこしらえた曲げ物の器(うつわ)「
笥」にこんもりとごはんを盛るのに、今は旅の途中なので椎の葉っぱの上に盛るよ、という歌の意味ですが、実は無実の罪に問われて死刑場にとらわれの身となって護送されている途中に詠んだ歌です。それはさておき、有間皇子は携帯用のごはんを持っていたのでした。このように、「糒(ほしいい)」「乾飯(かれいい)」は、昔から日本人の携帯食だったのです。
※私たちにとって主食の米。「米」を検索するか、KOMEKOME Clubeで調べてみよう。
おにぎりが生まれたのは平安時代
甑(こしき)という蒸し器で蒸したごはんは固いので「強飯(「こわいい」と言い、現在の「おこわ」のこと)」とも言いますが、釜で炊いたごはんはやわらかく、これを「姫飯(ひめいい)」と呼んだそうです。現在、私たちが食べているごはんはこの「姫飯」なのです。そして、この「強飯」や「姫飯」を卵形におにぎりにしたものを平安貴族は「屯食(とんじき)」と呼びました。以前は駅弁にも信越本線の上田駅に「屯食弁当」というのがありましたが、今はなくなっているようです。「屯食」の弁当はイメージ的には紀勢本線新宮駅の
こんな駅弁を想像してみて下さい。
また、平安時代に紫式部が書いた「源氏物語」には、主人公の光源氏が元服(げんぷく・成人式のこと)する時に、家来たちに「鳥の子」という卵形をしたおにぎりをふるまったという場面があります。
「
屯食(とんじき)、禄の唐櫃(からびつ)どもなど、所狭(せま)きまで」
とあるのですが、祝いの品としておにぎりや唐櫃(衣類などを入れる玉手箱みたいな箱)などが所狭しと並べられた、ということですね。
参考までに、当時、「屯食」は宮中の女房(女性の仕官)など、女の人の言葉で「おにぎり」とも呼ばれていました。これが「おにぎり」という呼び方のルーツなのかもしれませんね。
もひとつおまけに、「おむすび」という呼び名もありますが、これは手や指を合わせて形を作ることを「むすぶ」と言うところからきたものだと考えられているようです。
※「おにぎり」や「おむすび」、そして「姫飯」、「屯食」を検索して、さらに調べてみよう。
弁当箱は中国から
一方で、Aの「食べ物を箱に入れる」という「弁当の文化」は中国から伝わったとされています。
「弁当」という言葉は「便当」と書き、もともとは中国語なのです。ちなみに現在でも中国では「便当」と書くそうです。
日本の室町(むろまち)時代には「食籠(じきろう)」という竹で編(あ)んだ食べ物入れがありましたが、中国にはもっと大きい「如意籠(にょいかご)」という食べ物入れがあり、それを持ち運ぶスタイルが「当座に便利」だったため、「便当」と言われるようになったということです。
*「当座(とうざ)」・・・「その場で」、「その場ですぐ」
※「食籠(じきろう)」、「如意籠(にょいかご)」を検索してみよう。どんな形をしていたのでしょうか。
日本で最初に弁当を食べたのは織田信長?
「便当」は日本の安土桃山(あづちももやま)時代には今の「弁当」のように、お正月に食べるおせち料理のうつわのような形をした重箱の容器となりました。今風に言えば、ラーメン屋さんの出前のような箱「提げ重(さげじゅう)」の中に、重箱やお酒などを上手に入れて、手に提げて持ち歩いたとされています。一つの説として、日本では織田信長が初めてこうした弁当を食べたのではないかと言われています。
江戸時代には弁当が庶民のものに
江戸時代になると、弁当はごくふつうの庶民のものとなり、畑で野良仕事をするときの「野良(のら)弁当」、お花見をしてお酒を飲んだり料理をつまんだりする「花見弁当」、芝居見物をするときの「芝居弁当」、お城に詰めていた人が夜に食べる「夜勤弁当」、おにぎりを竹の皮で包んで持ち歩いた「旅の弁当」などが出てきました。それだけ弁当が庶民の生活に根づいてきたと言うことがわかりますね。
「幕の内弁当」が登場
江戸時代の終わりごろ、「幕の内弁当」が登場しました。歌舞伎(かぶき)が特に盛んだった大坂(大阪)で誕生したようです。当時の芝居はたいへん長く、朝から晩まで続いたらしいです。したがって、幕間(「まくあい」・・・ひとつの場面が終わって幕が閉じ、つぎの幕が開くまでの間)も長く、その間に食べる弁当が必要になったわけです。幕と幕の間に食べる弁当なので、いつしか「幕の内弁当」と名付けられたのでしょうね。「幕の内弁当」はもし短い幕間でもかんたんに食べられるようにと、小さなおにぎりを入れ、おかずと仕切って1重の折り箱に詰め、膝の上でも食べられるように工夫されていたと言うことです。こんにちのお弁当や駅弁に近い形のものがここで生まれたのですね。
※「弁当」や「便当」、「辨當」(古い字体です)、「弁當」、「幕の内弁当」、「幕ノ内弁当」、「幕乃内辨當」などのキーワードで検索してみよう。
「日の丸弁当」は明治時代、そして暗黒の戦争時代へ
明治時代になると、アルミニウム製の弁当箱が広く用いられるようになり、いちばん簡単なお弁当として、朝に炊いたごはんを入れて、真ん中に梅干し1つをのせた「日の丸弁当」がしだいに見られるようになりました。このように、「日の丸弁当」は質素ながらも通学や通勤のお昼ごはんとして活躍するようになります。
しかし、昭和の時代に入って太平洋戦争が近づくと、国の命令によって、すべての学校で質素・倹約と日本の勝利を願って「日の丸弁当」以外の弁当を禁止するというような事態も生まれてしまいます。ごはんに梅干し1個の「日の丸弁当」以外はダメだなんて、今の時代に考えられるでしょうか? 当時の学校の先生たちは、いつもお昼の時間に「日の丸弁当」以外のぜいたくな弁当をもってきた生徒を取り締まるのも仕事だったのです。そして、駅弁にも戦争色に塗られた「日の丸弁当」が登場します。このサイトにもありますので
こちらを参考にして下さい。
日本に弁当文化が開花した理由
日本人が食べている米は「ジャポニカ米」と言います。一方で、世界で米を食べている人は30億人ほどいると言われていますが、たいていは「インディアカ米」という細長くてぱさぱさしたごはんを食べています。こちらは時間が経って冷えてくるとかたくなり、よけいにぱさぱさして味が落ちてしまいます。ところが、日本のお米は色が白く、粘りがあって、つややかなお米なので、炊いて数時間経ってもほぼ味が変わらず、冷えてもおいしいのです。ですから、主食であるお米のごはんの保存食として、長い時代を経て「弁当文化」が花開いたということなのでしょうね。
※日本の弁当文化の一つ、「松花堂弁当(しょうかどうべんとう)」を検索してそのルーツや特徴を調べてみよう。
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