寝台特急「出雲」廃止展開記・奮闘記・旅行記


『出雲』廃止展開記

この2,3年、ダイヤ改正が近づく度に何処からともなく『出雲』廃止の噂が聞こえていた。しかしそうは言っても、山陰から「東京往復割引きっぷ」を使って東京方面へ向かうビジネスマンの方々がおる限り、廃止は無いと思っていた。それだけではない。立席特急券で乗車できる香住→出雲市間(下り)および出雲市→鳥取間(上り)も、乳幼児連れの女性,老人,身体障害者などの交通弱者や、一部のビジネスマンなどが乗車していたから。

     
     夏の米子駅に佇む『出雲』。2005年7月9日。まだこの頃は、このアングルで撮らせてもらえた。これが最後の夏になろうとは…。

去年夏頃もいよいよという話を友人から聞いたが、その顔つきは神妙…。そして、その時は訪れた。
2005年11月29日付22面地域総合欄。“『出雲』の廃止検討 JRが県に意向”…その記事を見た瞬間、自らの目を疑った。
「えっ!?嘘だろ…」
記事を読み進めて行くと、廃止理由として「ライフスタイルの変化によるレジャー型利用へのシフト」「採算性悪化」「車両の老朽化」が挙げられ、春のダイヤ改正が発表される12月中旬までに関係する3県(兵庫,鳥取,島根)に意向を示すとあった。

当然これら3県は猛反対し、JR3社(東日本,東海,西日本)に要望活動を起こしたとのこと。しかし、無情にも春のダイヤ改正発表。2005年12月16日付1面トップ“『出雲』を来春廃止 JR西社長片山知事に伝える”…ついにさよならへのカウントダウンが始まった…。

     
     食堂車“星空バー”オシ24内部。2005年7月9日。こういう感じが、ある意味魅力だったんだなぁ。
                                              ゆったり流れる時間を独り占めした気分に浸れたから。

この発表の後、県上層部の猛抗議が一段と大きく展開される(2005年12月23日付22面地域総合欄)が、ニュースなどで街頭インタビューを受ける一般庶民の重い口から出る言葉は、「残念です、でも仕方ないです。」
東京の旅行会社が臨時列車運行という形のプランを出して(2006年1月14日25面社会欄)少しだけ希望を灯すが、見事に空振り…。時間は確実に過ぎていった。


『出雲』奮闘記

『出雲』の廃止を知ってしまってから、憧れだった東京から『出雲』A個室寝台シングルデラックスに乗車して故郷山陰へ帰ってくる夢を、計画が固まりつつあった冬の駅弁行脚のフィナーレに叶えてあげたくなった。本当は、ゼロに近い可能性だが将来出世した際に東京出張の帰りに実現したかったのだが…。

地元紙で速報された翌日11月30日仕事帰りに鳥取駅へ出向き、2006年元旦東京発出雲市行『出雲』A個室シングルデラックスを予約。そして、運命の12月1日10時…自分の携帯電話にかかって来ない。その後終業時間まで電源を切らずにしておくも一向に合図無し。仕事帰りに駅のみどりの窓口で尋ねると、
「すいません。残念ながら元旦下りの『出雲』A個室は満席でした。キャンセル待ちをかけておきましたが、どういたしましょうか?」
「そうですか…ありがとうございます。引き続きキャンセル待ちをお願いします。」
もちろん、その週末に鳥取大学前駅と郡家駅に出向いて同様のキャンセル待ちをかけてもらったのは言うまでもない。

     
     浜坂からの積込。2005年9月3日。下り『出雲』浜坂→鳥取における車内販売に積み込まれる、
                                               鳥取の駅弁2種+今は無き車掌弁(通称“レチ弁”)。


けれども、世間一般の流れとは逆のはずなのに一向に空席が出ない。盆暮正月だからこそ満席なのかもしれないが、普段はそれこそ埋まらないA個室。それでもって都会から田舎に人が大移動しているのに、空きが出ないとは…ひょっとして団体様?んなアホなぁ〜(T_T)

そうこうしているうちに容赦なく4週間が経ち、旅行出発日の12月29日早朝5時、前日22時段階でのキャンセル状況を聞くも…
「キャンセル出てないですねぇ…」
「ありがとうございました。旅先で粘ってみます。キャンセル待ちは解除しておいて下さい。」
こうして、18きっぷ,数枚の指定券,元旦に行使するために前もって調達しておいた正月パスを持って、智頭行普通列車に乗車し鳥取を発った。

旅行中、乗換駅でそれなりの待ち時間があると速攻でみどりの窓口に向かい、
「すみません。1月1日21時10分発『出雲』A個室シングルデラックス、ありますか?」
「少々お待ち下さいませ…カチッカチッ…カチカチッ…カチッ…あいにく満席の模様です。B寝台の上段にいくらか空席がございますが、どういたしましょうか?」
「ありがとうございました。また違う駅をあたってみます。」
東日本エリアに入ってからは、『はやて』の指定席状況と平行しながら、
「1月1日の『はやて』71号の空席ありますか?」
「少々お待ち下さいませ…カチッカチッ…カチカチッ…カチッ…あいにく満席の模様です。」
「それでは、1月1日21時10分発『出雲』A個室シングルデラックス、ありますか?」
「はい。カチッカチッ…カチカチッ…カチッ…こちらも満席のようです。」
「ありがとうございました。また違う駅をあたってみます。」

     
     車掌弁。2005年9月3日。これが、一般人は購入できなかった幻の駅弁。袋の中にチラッと見える、
         「特製 幕の内弁当」と書かれたそのイカした掛紙は、ある意味マニア向け。たぶん、現在では入手不可能。



そんなこんなで連戦連敗の中、そのことで頭がいっぱいだったのかとんでもないミスを犯してしまう。12月31日早朝のこと、甲府駅での『ムーンライト信州』タッチ&ゴー失敗…私ともあろう者が寝過ごしてしまい、気づいたら極寒の高原にある小淵沢駅手前。慌てて降りるも時間は3時、始発電車まで2時間半待たなければならない上、当初の予定より数時間のズレ…1時間程は寒さとどうしようもなさで抜殻状態。結局、少しでも時間を予定に戻すため首都圏でいくつかのルート変更を行い、新松戸から我孫子へ。我孫子で接続時間を利用して元駅弁屋さんのうどん屋で天玉うどんを食っていたが、またもや私としたことが…あと少しでというときに、乗車予定のいわき行が発車してしまい、さらに行程が1時間ズレ。仕方なく次の水戸方面の接続待ちのため取手に向かい、みどりの窓口へ。

「1月1日21時10分発『出雲』A個室シングルデラックス、ありますか?」
しばらくして…、
「1室だけありますよ。」
「\(ToT)/」
カシャッ……カシャッ。
「これで間違い無いでしょうか?」
「…間違いありません。ありがとうございます!」
「16500円になります。」

     
     奇跡の1枚。たぶん最初で最後の贅沢な帰鳥。ふるさと行プラチナチケット。


『出雲』旅行記(1)

2005年大晦日、奇跡的に空室が出たおかげで、ついに念願の『出雲』A個室フル乗車。出世なんかしていないけど、幻になりかけた憧れの列車に乗る夢を実現にこぎつけたこの1枚のきっぷ…。

     
     発車案内。東京駅にて。もう見ることはできない。

2006年元旦。優等列車も第三セクター鉄道も東日本エリアならこの日限り乗り放題の元旦パスを使い、かなり濃厚な駅弁行脚を行った日。そんな日の辺りが暗くとも街の灯が眩しい20時頃、東京に到着。旅のラストを飾る列車への準備のため、ニューデイズからおふろセットと菓子ドリンク類を買い込み、再び東京駅へ。そして20時59分、10番線に青い車体がいそいそと入線…。そう、ふるさと列車『出雲』…。

     
     A個室シングルデラックス オロネ25内部。登場時からほとんど変わっていなかった…らしい。

今まで足を踏み入れることのなかった、機関車のすぐ後の1号車に入る。右折して洗面所地帯を通過したすぐの部屋14番、そこが今年最初の寝床かつ最初で最後の夢の寝床…だが入った瞬間はショックだった。以前乗車した際に見たことがある『北陸』A個室シングルデラックスは、まるでシティホテルの1人用個室みたいなベット&机に落ち着いた感じの室内灯。その映像が私の中で「シングルデラックス」の標準設備として強く残り、『出雲』のそれも同様の豪華な設備というイメージがついていたから。そして、そのイメージがあったからこそ憧れも強くなったわけで。
でも、実際は開放B寝台を少しだけ長椅子風にしただけ。窓際の簡易テーブルが簡易洗面台になったのにはびっくりしたが、A個室寝台料金13350円を取る割には狭い部屋だなと。これに関してメールで友人に尋ねたところ、『出雲』の編成は製作された当時とほとんど変わらない車両ばかりのオリジナルに近い編成で、現代では到底料金を取れるサービスレベルではないが、鉄道史的には凄く貴重な車両ばかりとのこと。そう考えると、あえてそのボロ車に大金を叩いて乗車すること自体が、今後そう経験はしない貴重な思い出になるかなと。そう思うと、何故だか愛おしくなってしまった。

      
     簡易洗面台。使用前(左)と使用後。

横浜を過ぎた頃、おふろセット持参でシャワーを浴びる…つもりだった。しかしながら残念なことにシャワー室がついておらず、せめてシャワーを浴びた気分になるために、自分の部屋の簡易洗面台でタオルを軽く水に浸して絞り身体を丁寧に拭き、下着の上に浴衣を羽織って菓子ドリンク類を持参して、フリースペースと言う名のロビーカーとして存在する5号車の食堂車に移動。

     
     鏡台。嗽用のプラスティックコップの他に、“神の御慈悲”ことAC100Vコンセントも標準装備。

いざ移動してみると、通常は東京から山陰へ出張帰りのサラリーマンが宴会しているであろう風景はそこにはなく、同好の士と思われる人々が翌日の作戦会議らしきものをしている風景が。大型時刻表,カメラ類,携帯電話,ノートパソコン…人数が全テーブルの3分の1くらいだったのがせめてもの救いか。ゆったりとした時間の流れが作り出すくつろぎこそが、通称“星空バー”と言われる食堂車オシ24の魅力でありセールスポイントなのだから。
幸いソファースペースはがら空きだったので、御偉いさんのように独り占めしてテーブルに菓子類を広げ、炭酸飲料やらスポーツドリンクのペットボトルを数本置き、約1時間程過ぎ行く街並みの夜景を眺めながら、地味ながらも確実に思い出を心の奥深くに刻み込んでいった。


『出雲』旅行記(2)

1月2日6時過ぎ…ある意味清々しい目覚め。3夜連続で夜行列車の座席で寝泊まりしていた身体には、これとないプレゼントだったのだろう。特有の揺れを気にすることなく、すやすやと爆睡していたようだ。鉄道好きなら見逃せない、京都駅停車時間に行われる電気機関車からディーゼル機関車への付け替えも、全く見ることがなかったのだから…。

     
     取扱説明板。セッティングの仕方と諸注意を表記。

寝起きの宜しくない私のこと、起きて暫くはボケ〜ッとしていたが、朝食に豪華な駅弁を予約していたことを思い出し、急いで浴衣から着替えて食堂車へ向かう。
7時22分、定刻通りに浜坂到着。ここで我が鳥取の駅弁屋さんが食堂車に乗り込み、鳥取到着まで36分間にわたり車内販売が行われるのだが、通常販売される2種類の駅弁とは別にされた駅弁が1つ…そう、それこそ私が元旦に一戸から電話予約して、車内販売に積み込ませるよう頼んでおいてもらった品物。自分にとっての思い出作りに欠かせない要予約駅弁「笹かに」である。
『まつかぜ』で食べて以来手にするそれは、やはり独特の重厚感があり、笹の香りが何とも言えない幸せな気持ちにさせてくれる…。幸いにもテーブルが空いていたので、てきぱきと駅弁撮影を済まして、贅沢な朝飯。たとえ食堂車が非営業でも、持ち込む食物によっては色々と表情を変えるものなんだなぁと改めて思った。

     
     個室キー。昔ながらの鍵。使い捨てタイプのカードキーじゃないので、持帰不可!今ではどれくらいの価値があるだろうか?

食事時間が終わりかけた7時58分、架線の無い山陰線の高架上にある鳥取の駅に到着。いつもならここで旅は終わるが、今回は『出雲』フル乗車と出雲大社初詣を兼ねているため、まだ旅は続いているのだ。急いで下りる準備は必要ない。夜が明けてからしとしとと降り続く小雨の中、そんな山陰の冬を名残惜しむように『出雲』は西へ走り出していった。

     
     鳥取駅に入ってくる『出雲』。2006年2月8日。雨。

鳥取県中部の主要都市である倉吉を過ぎると、山陰一の名峰大山を左側に、母なる大海日本海を右側に臨む風光明媚な区間に入る。特に浦安から大山口にかけては、麓の町の基幹産業が酪農であるのも手伝って、まるで山陰ではなく北海道に来ているかのような錯覚を覚えるような景色である。

     
     鳥取駅に入ってくる『出雲』。2006年2月12日。雪。

そのような区間を過ぎ、撮影ポイントとして名高い日野川鉄橋を渡って数分後、米子到着。ここで『やくも』を先に行かせるために22分間停車するが、大半の客の利用はこの駅まで。ここより西の住人は『サンライズ出雲』を使って東京まで往復することが多いので、『出雲』は下り上り共に実質的回送状態へ。それでもまだ乗車している客は、朝遅くまで寝ていたい人と、開放B寝台の設備が愛しくて仕方ない人とみてほぼ間違いない。
米子を発車した『出雲』は、行き交う特急に気を遣うようにそそくさと走り、10時54分出雲市到着。ここに憧れのふるさと列車『出雲』フル乗車を達成した。

     
     鳥取駅に入ってくる『出雲』。2006年3月5日。晴。

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