寝台特急さよなら出雲
奮闘記
最終運転参列記



さよなら…『出雲』奮闘記

去年(2005年)末から今年初にかけての壮大な旅行から帰ってきたその足で、『出雲』最終運転日の予約を申し込み。ただ、とても寝台車に乗る余裕はもう残っていなかったため、地元民の特権と言っても過言でない立席特急券でだが。2006年3月17日の出雲市→鳥取、翌3月18日の香住→出雲市。

時は刻々と過ぎていく…そんな現実に身を置いている中で『出雲』乗車を遂行した2ヶ月半。その記憶を辿ると…。
2006年1月16日。本来は京王デパート駅弁大会遠征のためにとった有休だったが、財政的に破綻しかけていたため遠征中止。けれども、ちょうど県外在住の友人達が『出雲』惜別乗車で山陰に来訪したので、彼等と共に出雲観光をするため、鳥取→出雲市を立席特急券行使で乗車。
2006年2月8日。米子に所用があり、鳥取→米子を立席特急券行使で乗車。
2006年2月12日。前々から行ってみたかったCM発表会と松江観光を兼ねて、親を誘って二人旅。鳥取〜松江を立席特急券行使で乗車。

     
     あっ…2006年6月1日。夕方の鳥取駅にひっそりと佇む…とある力で永久の眠りから覚めた『出雲』。

こうして、ささやかな経済力の下で可能な限り乗り鉄をしたが、ついに運命の日が来てしまった。2006年2月17日。そう、『出雲』最終列車の寝台券および立席特急券の発売日。もちろん、かけていたにもかかわらず…結果両日共キャンセル待ち(T_T)
今まで当日出発1時間前でも楽勝で買えた立席特急券が、最後の1週間は壊滅状態だった。

月日が経過すれどもなかなか吉報は届かず。それは3月も続きそうな流れだった。しかし、1週間前の2006年3月10日、出雲市→鳥取の上り最終運転のきっぷを入手。翌週月曜日始業前急ぎで書いた17日の有休願を提出し、昼休みに了承を得て生前葬“通夜”参列確定。そして、その参列へ向かっていた2006年3月17日、香住→出雲市の下り最終運転のきっぷを入手。これにて、“告別式”参列確定。本当のお別れをするときに立ち会えた。

『出雲』最終運転参列記(1)

2006年3月17日…大都会東京と山陰を結んでいた、偉大なる寝台特急『出雲』最後の日。
これから書く文章は、当日および翌日の『出雲』最終運転に立ち会った私の参列記である…。

朝のラッシュ真只中の8時台、駅ではなくバスターミナルに立っていた。これからはるばる出雲まで向かい、消えゆく名列車の生前葬に参列するのだが、この3ヶ月できる限りの看病に費やしたため、如何せん懐が寒い。なので、せめてセレモニーの行われる現地まではリーズナブルに行こうということで、鳥取から松江まで「乗放題手形」を行使することに。よって、ここにいる。

     
     『出雲』さよならセレモニー。出雲市にて。夕方故か夜汽車の実感が…でも、この日でサヨナラなのは確かな事実。

行程は次のとおり。
まず鹿野行に乗車し、浜村駅で下車。ここから青谷までは路線バスが1日5往復なので、180円で汽車に乗りワープ。青谷からは倉吉を経由し下市へ。ところが悲しいかな、下市から先のダイヤが変更されていて、そうでなくても1日2往復の貧弱過ぎる路線バス同士の接続が途絶え、私の安く出雲に行こうという浅はかな計画は見事に破綻!さらに最寄駅の中山口で列車を待つも、目前を快速が駆け抜けてしまう始末(もう一つ鳥取寄りの赤崎まで戻っていたらこの快速に乗車できて、米子→松江をバス移動できた。)。もう踏んだり蹴ったりである。

     
     発車案内。出雲市にて。翌日から、ほぼ並行していた『スーパーまつかぜ』に。


仕方なく出雲市まで列車移動。到着時刻も“通夜”開始1時間前…参列が微妙になるところだったかもしれない。
すぐさまコンコースに下り、約1週間前に予約しておいた記念駅弁を購入。入手した下り最終『出雲』立席特急券に入鋏してもらい再度駅構内に戻り急いで駅弁を撮影。何とか事前活動を終え駅員さんと暫し談笑していると、鉄分濃厚な周囲の人々がざわめきだし、そして…。

夕焼け眩しい西の空に浮かぶ、赤い機関車と青い車体…これで最後の『出雲』、堂々と出雲市駅1番線入線。お別れ式が始まり、御偉方のスピーチとそれを記録しようとする人だかりを右に見て、3号車に乗り込み腰を寝台に下ろす。先程仕入れた駅弁はまだ温かく、手作り感満載だった。

そうしているうちに式は最終局面へ。まさに旅立ちの時間。17時39分、出雲市発車。溢れんばかりの人々に見送られ、彼は長い間住み慣れたこの土地に別れを告げた。

宍道湖に沈む夕日を見つめつつ、駅弁を食らう。思えば、米子以西の下り『出雲』は最初で最後の体験。もう二度とこのような不思議な空間でこの絶景を眺められないなんて…そんなノスタルジックな気持ちが、徐々に抑え難い衝動への伏線になっていく。
宍道,松江,安来,米子…各駅ストロボ&フラッシュ多数。日も落ち辺りは暗く、既に夜汽車そのもの。そのシチュエーションだけで、頬に雫がつなってしまう。
定刻より少々遅れた19時50分頃、倉吉到着。スピーカーからは「蛍の光」が流れ、街の外れにある駅に響き渡る。
「♪ほた〜るの〜ひか〜り ま〜ど〜のゆ〜き〜…」口ずさむ私の顔は、何かを必死にこらえている。

さらに定刻より遅れた20時30分頃、鳥取到着。ついに別れの時が来た。こちらも式は最高潮に達しており、スピーカーからは「いい日旅立ち 西へ」。この切なすぎるピアノアレンジと、車掌さんへの花束贈呈が、私の涙の湖を……。

たぶん定刻より10分は遅れたであろう。夜汽車は汽笛を鳴らしながら東へ消えていった。ありがとう…そしてさようなら…あなたのことは忘れない…。


『出雲』最終運転参列記(2)

2006年3月18日5時、鳥取駅。そこには、前日の悲しみからまだ抜け切れていない私の姿。

出雲市から“通夜”に参列した際に行使した、2日間有効の浜坂行乗車券を手に、東海道線走行中の0時をもって臨終を迎えた『出雲』の“告別式”を迎えるべく、山陰線上り始発5時28分の汽車へ。普段は10人にも満たないガラガラのキハ47系2両の車内だが、この日だけは異常だった。普段から利用しているであろう人々がわからないくらい、ボックス,ロング共にたくさんの人が。さすがに満員電車みたいに立ちの客はいなかったが、その格好や装備はまさしく…。山男のようなパンパンのリュックに長袖長ズボン、ジュラルミンケースに重厚かつ高価なカメラ一式、そんでもってJRかJTBの大型時刻表を眺めて何かを考えている男性…。同じリュック姿とはいえ、街に出る程度のお気楽スタイルの自分が浮いているその異様な光景は、そう簡単には忘れられない。
駅前他鳥取市街地のビジネスホテルはさぞかしホクホクだったであろう。『だいせん』が消されて夜行列車が存在せず、鳥取方面行夜行バスも使えない時間帯である以上、彼等は間違いなくこれらに宿泊していたはずだから。受験シーズンとも重なっていたため、受験生と鉄道ファンで相当収益をあげたはずである。

     
     発車案内。浜坂にて。最後の『出雲』表記。事実上前日までの運転故に“亡霊”と化してしまっているので、
                                                 正式には臨時寝台特急列車『9004レ』の扱い。


そんないつもと違う汽車だったが、トコトコといつも通りのダイヤで各駅に止まりながら東に向かい定刻に浜坂到着。冬期のため手動で開かなければならない、その扉がこじ開けられた瞬間……例えるならまさしく“大垣バトル”!乗換時間はたったの3分。その3分間で本屋側1番線到着の2両の汽車から階段を駆け下りて中島左2番線出発待機中の3両の汽車に乗り座る席を確保…1両分多い分確実に座れるが、たぶん目的地であったであろう餘部の、いわゆる“御立ち台”に近いのは1番前の車両の1番前の扉付近のロングシートなわけで、少しでもいいポジションに座って、“御立ち台”でのバトルを勝ち抜こうとするオーラが、これでもかと放たれていた。普段は、改札出て左にある元駅弁屋さんのコンビニ「コスモス」で朝飯を調達しようと思わない限り、余裕で乗り継いでボックス1人占めができるんだけどなぁ…。

ところで、こちらの目的はというと、餘部で彼の最後の勇姿を拝むことではなく、あくまで乗車して“亡霊”と化した彼の“告別式”に参列すること。よって、阿鼻叫喚の状況の豊岡行の汽車を見送って、『出雲』到着まで最後の積込をウォッチングすることに。

     
     浜坂からの積込。最終日の積載量。当然、停車時間内に運べる量ではなく…。

ここで駅弁などを積み込み、食堂車オシ24の5号車で浜坂から鳥取まで車内販売を担当するのは、我が町の駅弁屋さんであるアベ鳥取堂だが、『はまかぜ』で商品と共にやって来るスタッフの他に、たぶん地元浜坂在住と思われる障害者の方1人が、スタッフとしてこの作業に従事していた。彼は毎日『出雲』の到着にあわせて休まず出勤してきたのだろう。でも、その日々も今日が最後。冷たい言い方で書くと、「アルバイト契約解除に伴う解雇」となるのだろうか?いつもなら、まだ来ないかなぁみたいな表情で準備している顔が、今日は全く元気がなく落ち着きがない。でも、商品が到着するとその表情をできるだけ隠して、鳥取から来たスタッフ(いつもは女性が1人だが、この日を含むラスト1週間は主に『スーパーはくと』に乗り込む男性や売店に立つ女性などフル動員して、一応倉吉まで延長営業。)と共に準備をしていた。まさにプロ根性。その姿に少々ジ〜ンときたのは言うまでもない。
そして、徐々にその時刻が近づいてきた。すると、女性スタッフの1人が彼に声をかけた。
「○○ちゃん、御苦労様。ほんと今までありがとね。今度は鳥取にうどん食べに来てね。おばちゃん達大歓迎だよ。」
その労いの言葉に彼はうっすらと涙を浮かべた…ように私にはみえた。ひょっとしたら、私が涙を浮かべたのかもしれないけど、そのような別れの光景が展開されていたのは事実である。

     
     最後のツーショット。2006年3月18日、浜坂駅で。もう二度と見ることはできない…。

この日だけの到着予定時刻7時35分から数分遅れて『出雲』は浜坂へ。急いで駅弁の入ったダンボールの箱を4,5号車の乗降口から積み込む。しかし、最終日で120食だか用意された駅弁を積み込むのに時間がかかるのは当たり前。私を含めた乗客2,3人も手伝って何とか搬入完了。さらに数分遅れて『出雲』は浜坂を発車。西の空へ最後の行路。バイバイと手を振る彼が、乗降口の窓から垣間見えた。

さていよいよ“告別式”参列だが、これがとてもそういうムードではない。BGMで例えるならば、本来DQVのエレジーあたりが妥当だが、この異常なまでのハイテンションはリオのカーニバルなどで流れるサンバ…いや、バーゲン会場やパチンコ屋でかかる吹奏楽…。なんともにぎやかな葬式だこりゃ(^o^;)
自分自身も然り、駅弁運びのお手伝いの後は車内の交通整理のお手伝い。『出雲』撮影者と通常の乗客の乗降で尋常じゃない混雑になった鳥取では、異常事態に困惑しているホーム上の乗客に、この列車は立席特急券か自由席特急券がないと乗れないとか、この列車だと米子まで間違いなく立ちっ放しだから『スーパーまつかぜ』に乗った方が速く快適に行けるとか。

     
     発車案内。米子にて。前日まで『出雲』だったダイヤは『やくも』へ。悲しいかな、もう“亡霊”だから…。

結局、駅弁屋と警備員と駅員のボランティアスタッフと化してしまった私。感慨にふける間もなく、10時前米子到着時に下車。そして“亡霊”『出雲』は10時1分に米子を発車し、ここに“告別式”参列…というより運営従事を終える。
上り最終と相対的な下り最終。あっけらかんとした目に涙はなく、実は夢でも見ているのではないかと思ったくらい。

     
     もう一つのツーショット。後方に佇む“亡霊”キハ58・28系急行形気動車と。

しかし、夢ではなく現実だと思い知らされた情景もチラリ。去り行く『出雲』の後ろ姿の奥に、本当に命の絶えたキハ58・28系急行形気動車…。


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