航路その他のスタンプについての説明

以下は貨車さんからのコメントです。

うらる丸は昭和4年大阪商船・大連航路(当時の船舶界には「郵商協定」なるとりきめがあった。これによると日本郵船は欧州・北米・豪州航路を。対し大阪商船は南米移民用航路、内地-日本植民地間航路を受け持つ。郵船は三菱財閥系、商船は三井財閥系。だが昭和12年に両者でかちあう上海航路が一本化され、郵船・商船と国の「半官半民」の国策会社「東亜海運」が成立)に就航した客船で当時は「うすりい丸」「きつりん丸」の姉妹船がいます。(当時郵船は客船に「神社名」を冠し、対し商船は南米・満州などの「地名」を冠した)規定上は高速貨物船の「うらる丸」ですが、当時の例として貨物船も20〜30人ほどのパッセンジャー(旅行客)専用のキャビンも備えていました。とくに三井汽船のニューヨーク急行航路のキャビンは豪華で郵船二等運賃で、一等の船旅が楽しめたとか。「うらる丸」級の一等談話室もすごい豪華でした。しかし12年からの日中戦争がしだいに激化、ついにうらる丸も帝國海軍に徴用され、病院船に。そして昭和19年9月27日、ボルネオ出航後、フィリピン沖で米国潜水艦に撃沈されました。
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19440927ural/ural.htm

「むらさき丸」のほうは関西汽船鰍ェ運航していた瀬戸内海の船らしいのです。スタンプのものより戦後昭和35年ころに竣工した「U世」の方が有名です・・・。
ただ、戦前の別府航路にも一世が就航していました。当時この航路には「くれない丸」「むらさき丸」「みどり丸」「すみれ丸」「にしき丸」「橘丸」「八島丸」「あかつき丸」がいたそうです。しかしごたぶんにもれず徴用され二度ともどることはありませんでした。このうち病院船だった「橘丸」が敗戦直前に米国潜水艦に撃沈された「橘丸事件」があったり「すみれ丸」がオランダに接収されたりしました。

長崎は東京へ鉄道省で行くより、海を越えて上海へ行くほうが近い。(このころの上海はビザが要らない港でした。がためにジャズメンに続き共産主義者も逃亡して、特高が追ってくる自体も)そのため昭和17年の関門トンネル開通後、太平洋戦争中にもかかわらず「富士」は九州に直通、長崎港駅に乗り入れ、「上海丸」「長崎丸」(一泊で上海に到着できる)に接続します。しかし展望車・一等寝台車・食堂車があっても食堂車での食事は粗雑パンにとんすいというありさま。「ひどかった」と古河緑波(ロッパ)はいってます。さらにロッパは陸軍高級軍人の横暴をみて「アカン戦争は負けや」といったそうで。

「ねっか丸」。http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19431123nekka/nekka.htm
ヨコに「内鮮満周遊の旅」、満映とありますね。12年作というと満映にはあの「満州のドン」「満州の夜の皇帝」甘粕雅彦や中国人をいつわりつづけなくてはならなかった李香蘭のいたころ。
当時は大阪商船は神戸-門司-大連航路に「うらる丸」「熱河丸」「吉林丸」「鴨緑丸」(とくにこの「鴨緑丸」は「最後の皇弟・愛親覚羅溥傑殿下婦人、嵯峨浩が処女航海で乗船し、大連から満鉄が用意した「あじあ」の「特別室」(最後尾展望車「テンィ8」には特別コンパートメントがあってVlP(甘粕雅彦や川島芳子、関東軍総司令官、南次郎、満鉄総裁・松岡洋介など)で新京へ)が就航していました。当時郵船・商船は満州・台湾・南洋航路は船腹に「○○丸」と書いてありました。(信じがたい話ですが欧州・北米航路の一部の船には「醤油タンク」なるものがありました。戦前から醤油はいがいにも欧米にいっており、こうした日本定期航路船にはビン・樽ではなくタンカーのごとくホースで醤油をちいさなタンクにつめ、輸送していたそうです)
熱河省はちょうど満州国と中華民国の間に位置しています。ここの省都・承徳はなにしおう阿片の一大供給源。「白面作戦」(阿片・モルヒネによる軍費稼ぎ)で軍費をまかなう、関東軍と中支派遣軍はこの熱河省を満州国に併呑する作戦をたて、昭和8年行動に移りました。ここで「宣伝塔」になったのが「男装の麗人・川島芳子」。(彼女は1年前、日本が強引に満州国をつくったため、ブーブー言う列強の目をそらすため上海事変を起こしています。)そして今度は「熱河安國軍総司令」として烏合の衆、(内訳は旧軍閥軍のならず者の寄せ集めにすぎない)をひきいて「颯爽と馬にのり硝煙の中、モーゼル自動大型拳銃片手に」はしりまわった、とか。


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