昭和初期。

左下の調製印には左上に「昭和」、右下に「時調製」と書かれていますが、ペンなどで日付や時刻が記入された形跡はありません。

右上の赤い印には「鐵指」と書かれています。何の意味かはわかりません。満鉄に指定された価格、指定された業者なのかも知れません。50銭という価格は当時でも高い方です。

「満鉄」と書かれていますが、厳密には満州国の国営線(満鉄[連京線]の終着駅、満州国の首都「新京」から分かれる京圖線)であり、満鉄に運営を委任していた路線であると思われます。圖們(ツーメン)はトマン川流域にある北朝鮮との国境の町です。

掛け紙の絵柄はブランコ。こういう遊びが流行っていたのでしょうか。

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貨車さんよりコメントをいただきました。以下に記します。
図門駅のものですがここは「満鉄北鮮線」という特殊線に面していた、とおもいます。「国際橋梁」をわたった対岸は満鉄北鮮線(特殊な線で専用の社紋も持っていた)の中間駅・南陽でした。図門駅は冬季この地方に跋扈した匪賊、ゲリラとうばつようの要塞になっていたようです。同じ零は牡丹江駅などにもあります。満鉄は駅を何段階かにわけ、抗日ゲリラの出る地域には駅を要塞化、望楼すらもうけていました。また満鉄には非常車、という装甲車があり、関東軍鉄道警備隊ののったこれらの車両が旅客・貨物列車に(とくに冬季)併結されています。これらの非常車は関東軍装甲列車として編成もされました。
満鉄は原則的には連京本線、安奉線、撫順線、営口線などのみでほか、たとえば新京-ハルピンなどは満州国鉄。満鉄内では満鉄オリジナル線を「社線」、満州国鉄を「国線」とよんでいました。
さてブランコはわかりませんが朝鮮の遊びで「ノルティギ」というのがありました。一種のシーソーで片方が跳ぶとかたほうが板をふむ、で朝鮮の一般的な遊びでした。
日韓併合が行われた明治43年より大正14年まで朝鮮総督府の鉄道もすべて満鉄に経営委託されていました。そののちも「北鮮線」を含む北東部は日本との重要連絡ルートとして満鉄の経営委託・管理区域として残されていたそうです。さてこの京図線は清津-新京に急行「あさひ」、京城-牡丹江間に2・3等寝台車、食堂車付き急行が2往復(敗戦まで1往復)存在していました。昭和8年まで、図門は灰幕洞という名でしたが、京図線開業とともに改称されました。やはり満鉄でなく満州国鉄であるようです。女性がチマチョゴリですが朝鮮族最大の居住区「間東」に近いです。