大正後期か。

掛け紙の印刷は右下に「札幌 北信堂 印刷」と書かれています。

スズランと思われる花の絵が中央に美しく描かれています。定価40銭という価格からしても大正後期という気がします。ただし、この「南小樽」駅は大正9年7月5日に「小樽」駅から改称しています(ちなみに「小樽」駅は同日、隣の「中央小樽」駅に名前だけ移動し、現在に至っています。)ので、この駅弁は大正9年以降に販売されたものということになります。

下は「御壽司」。「國民新聞」や「大學目薬」という大正8年〜12年にかけてよく新聞に見られた広告が入っています。

貨車さんからコメントをいただきました。「『國民新聞』は徳富蘇峰が1890年2月1日に創刊しました。徳富蘇峰は雑誌「平民之友)の成功に続きこの新聞を創刊。ころは「自由民権運動」のころで幸徳秋水の「平民新聞」などがありました。1905年(明治38)には日露戦争の賠償不満による日比谷公園焼き討ちにともない襲撃されました。1908年(明治40)には日本初の「地方版」を設定、1924年からは「天気予報」をこれまた始めて導入(昭和12年「軍事機密保護法」により全国の新聞・ラジオから「天気予報」が廃止)。一時は朝日・読売・報知・時事とともに「東京5大新聞」の一角を占めました。1926年(昭和元年)には「ボロ嘉一郎」とまでいわれた根津下一郎の出資をあおぎ、これがもとで徳富蘇峰は昭和4年退社します。昭和11年には中日の全身「新愛知」がプロ野球に参入したのを機に参入。が、昭和17年戦時体制化「都新聞」と強制合併されて消滅、のち新聞業界は最悪の時期に突入します。」
「『大学目薬』・・・、当時この看板は満州などにもあったようです。同じく「仁丹」は満州どころかアジア一帯にありました。費用とノリ、ポスターをわたし、「行けるとこまで行って貼って来い」と販売員を大陸に放り出したようです。中には反日暴動(大正期〜敗戦までよくおき、そのたびに居留民保護のため列強各国の軍や揚子江警備の海軍砲艦が出動)のため殺害されたり・・・。蒙古・大陸では日本人から土地の有力者へのお土産に「仁丹」「味の素」「大学目薬」がよくもちいられました。(めったに風邪ひかないから、仁丹で風邪、腹痛が一発で治った、とか・・・)(「味の素」「金鳥(蚊取り))「森永ミルクキャラメル」とかは天津・上海など中国全土で見られたそうです)」


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