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駅弁大会とは? 〜その光と陰〜

皆さんは「駅弁大会」というのを知っているでしょうか。
毎年冬になるとあちこちのスーパーでやってるでしょう。
最近は空港の弁当である「空弁」も増えてきましたよね。

「駅弁大会」は太平洋戦争後の混乱がおさまった1950年代後半から、旅行ブームに便乗する形で東京や大阪などの大都市では正月の風物詩として開催されるようになりました。
そもそも駅弁はそれが売られている全国各地の駅まで行かなければ買えないものなのですが、そこまで行かなくても北から南まで全国各地複数の有名駅弁業者が一堂に会すことから、デパートで調理したできたてのものを手に入れることができ、しかも旅行気分が味わえるとあって、デパートでの駅弁大会はまたたくまに全国の地方都市に広がっていったのです。

     

喜んだのは客だけでなく、デパートもそうでした。もともと正月明けは売り上げが伸びない時期で困っていたところへ、駅弁大会というドル箱催事がうまく入り込んでくれて、とても集客力があったからです。各デパートでは屋内最上階でこの催事を実施し、「シャワー効果」(駅弁大会を訪れた客が階下に移動する際の「ついで買い」)を期待するようになっていきました。

      

しかし、絶頂期は長くは続きません。鉄道での旅行が高速化するにしたがって駅弁の存在意義が薄れてきたり、マイカーでの旅行が増えたり、あるいは駅弁大会の開催時が重なることで業者の人手確保が難しくなったり、駅弁に限らず地方の物産展とした方が客が集まったりなどの理由から採算が合わなくなり、駅弁大会は1980年代より全国の老舗百貨店から次第に消えていったのです。

     

一方、皮肉なことに鉄道に比べて自動車での貨物輸送技術は発達し、防腐剤などの食品添加物の発達による保存性の向上、駅弁製造技術の向上による大量生産の実現などから、前日に作った駅弁を輸送して翌日に売るということが可能になりました。そのため、駅弁大会から手を引くデパートに代わって、特に1990年代から全国のスーパーマーケットでの客寄せ目玉企画として、全国の隅々にまで駅弁大会が実施されるようになります。こうして駅弁は旅行好きな人以外にも浸透していくことになりました。最初は正月の風物詩だったものが、今では10月から4月くらいまで、1年のほぼ半分が駅弁大会シーズンと言われるまでになり、毎年の新作も登場するようになって、現在ではちょっとした駅弁ブームとなっているような感さえあります。

     

こんな状況の中で、駅弁屋さんによっては、地元の駅よりもスーパー駅弁大会での売り上げの方が多いというところもたくさん出てきました。また、よほど地元での売り上げや仕出し弁当業務などの多角経営がうまくいっていない限り、駅弁大会に依存しなければ経営が成り立たない駅弁屋さんが目立つようになったのです。特に廃れた地方にあっては、駅弁屋さんが駅弁だけで生き延びて行くにはあまりにも厳しい現実がありました。現に昔ながらの駅商売をしてきた駅弁屋さんが毎年いくつも廃業していきます。駅弁の歴史120余年の中で、今これからの時代は駅弁屋さんの正念場ということになるのだろうと思います。しかし、その意味で昨今の駅弁大会ブームの到来は、駅弁屋さんにとってまさに「救世主」的な意味を持つものであったと私は思います。考えようによっては、駅弁大会の隆盛によって、今や駅弁は駅から飛び出してしまった「デパート弁」「スーパー弁」であるとも言えますね。これはとても不思議な現象だと思います。

     

でも、困ったことがあります。駅弁大会での利益を上げるために、最近になってやりすぎと思われるような駅弁屋さんの一面も見られるようになっているからです。例えば現地では実際に売られていないものを駅弁と偽って売っている疑いのある駅弁屋さんがごくごく一部存在しているようです。また、そこまでではなくても、現地で作っていては調製が間に合わず、または本社工場の製造能力を超えて需要があるようなときに、他の協力的な仕出し弁当工場や炊飯工場などに依頼したりなどして調製、輸送したり、実演したりしているという駅弁屋さんが少なからず存在しているようです。その結果、必ずしも駅弁大会では現地で売られている駅弁とそのまま100%変わらぬ駅弁が提供されているとは限らないということになりました。これは私たち客の立場からすると、駅弁屋さんからダマされているというような思いがするものです。そしてそういうやるせない思いの体験談がウェブ上のあちこちで報告されるようになってきてしまいました。

     

もちろん現地で売られていない駅弁を偽って売ることは明らかに詐欺(さぎ)行為ですから絶対に許せません。これは即刻やめて欲しいです。客の夢を壊しますからね。しかし、大量に注文が来て、自社の製造能力を超えてしまったときに協力工場へ製造を依頼することに関しては、現実に経営が苦しい弱小駅弁屋さんが生き残っていくために、ある程度は認めてあげてもいいのではないかと私は思っています。
このことについて、よく駅弁大会で買う駅弁はニセモノだから嫌いだ、駅弁大会で駅弁を買うのは邪道だ、と言う人を見かけますが、本物はもちろん現地にあるわけですので、どうしても本物を求めたい人は現地に行けばよいのです。そういうこだわりで駅弁を味わっていこうとする姿勢は、それはそれでたいへん素晴らしいことです。
一方でそういう人たちとは違い、スーパーや百貨店の駅弁大会に喜んで足を運ぼうとする人たちは、100%本物であると言うことが一番大切なのではなく、むしろ疑似(本当は旅行きたいけれども行けないのでせめて雰囲気だけでも味わいたくいという)体験的な「旅情」や「郷愁」を求めて駅弁を買いに来ているわけです。ですから、たとえそれが駅弁大会のために作られている駅弁であったとしても、どこか懐かしく旅の楽しい気分にさせてくれさえすれば、それで十分であろうと思います。それが駅弁大会での楽しみ方だと私は思います。

     

それでは、駅弁大会の「魅力」とはいったい何なのでしょうか? 
考えてみると、時代遅れで「消えてやむなし」の駅弁業界がここまでよく続いています。それは駅弁大会という百貨店やスーパーでのイベントの力、そしてそれに伴って生まれた過熱式などの駅弁に代表される数々のアイデアとによるものだろうとつくづく思います。駅で売れなくてもスーパーで売れるのですから、その魅力は「不思議」であると言わざるを得ません。

私は思いますが、駅弁大会は日本全国「グルメの殿堂」として、つまり素材がどうだとか、器がどうだとか、そういう華やかな「味の競演」のような、言わば物質的な価値で語るよりも、何だかわからないけれども私たち日本人の心にいつまでもしっかりと刻まれて残っていくような精神的な価値で語るべきもののように思います。心理学的にたとえて言えば「集団的無意識からくる深層心理」みたいなものの価値でしょうか。私たちが駅弁大会の駅弁に求めているものが「旅情」や「郷愁=ノスタルジア」ならば、駅弁大会はまさにそれらを擬似体験的な雰囲気として味わうためのサロンのような役割を果たしているのではと思います。そして、そんな雰囲気を醸し出す場であるからこそ、全国どこへ行っても駅弁大会は繁盛しているのでしょうし、そういう雰囲気そのものが駅弁大会の不思議な魅力ということになるのだろうと納得してしまうのです。これはブームだからということはでなく、もっと普遍的に私たちの魂をとりこにさせるものが駅弁にはあるということなのでしょう。

そう考えると、人々があくせく活動している21世紀であっても、いや、そうであるからこそ、日本人は逆に「心の旅」や「心のふるさ」とをこれからも求め続けてゆくのではないでしょうか。極端な話、もし万が一駅弁が駅からなくなってしまったとしても、スーパーや百貨店の駅弁大会では「元駅弁」としてしぶとく残っていくような気はします。それほど日本人を惹きつけてやまない魅力をもったものが駅弁であり、駅弁はある意味において日本特有な一種の「精神文化」の一つなのかもしれません。

とにもかくにも、今では遠くにいても近くで買えるようになってきた駅弁です。駅で買わなくても駅弁です。駅弁大会で買えるから駅弁なのです。最近では大手コンビニで全国一斉販売されたものまで出てきました。コンビニの経営戦略に使われるほど、駅弁の魅力はあるのだという証しでもあります。

皆さんもぜひぜひ駅弁の魅力を体験しに、10月から4月まで、皆さんの住む町や近くの町で開催されている駅弁大会をのぞいてみましょう。

発展学習

集団的無意識からくる深層心理」・・・よくおとぎ話で正義の味方が悪者を退治したり、不幸な主人公がハッピーエンドで終わったりというストーリーがありますよね。こういうのは私たちが個人としてではなく、集団としても無意識のうちに求めている普遍的なストーリーなのかも知れません。駅弁の場合、旅に出た気にさせてくれる、とか、田舎の懐かしい雰囲気にさせてくれる、とか、今風に言えば、誰もが求めている「癒し」の雰囲気をもっているものだろうと考えられるのです。

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