エッセイ「東日本大震災と駅弁」   2011年7月

 東日本大震災で被災した駅弁は今・・・

 二〇一一年三月一一日一四時四六分、マグニチュード9・0という日本観測史上最大の地震と大津波が、東北地方を中心に太平洋側を襲った。「東日本大震災」と呼ばれるこの大規模地震災害により、死者、行方不明者は二万人を超えた。福島県では放射性物質の放出を伴う重大な原子力発電所の事故を招き、周辺一帯の住民は長期の避難を強いられている。また、鉄道においても東北新幹線をはじめ、東北地方の太平洋側を走る路線の線路や駅などが甚大な被害を受け、今もなお常磐線や三陸鉄道などの一部区間では復旧の目途が立っていないという状況下にある。

 当然のことながら、駅弁業界も大打撃を受けた。例えばJR山田線宮古駅の近くには魚元という駅弁屋がある。ウニそぼろを敷きつめ、アワビスライスをご飯の上に載せた「いちご弁当」は、百貨店やスーパーで開催される駅弁大会でも人気の名物駅弁であった。ところが、地震と津波で店舗は被害を受け、売り場である宮古駅も路線の不通により機能しなくなった。また、魚市場が流されたため、仕入れもできなくなったという。しかし、魚元が加盟する全国の駅弁屋の団体、「日本鉄道構内営業中央会」には、非常時において関係各省庁やJRからの要請に応じ、供食業務を行うという約束事があり、地域の災害時に役立つための「災害時等のマニュアル」も予め作成されていた。そこで、自らの工場は一部損壊などの被災をしているにもかかわらず、地域の災害者を対象に、残った食材で炊き出しを行い、復興に向けた支援の役割を立派に果たしたということであった。

 もちろん、他の東北地区にある駅弁屋も震災直後から被災地への食料供給を開始している。仙台駅弁こばやしは震災の翌日から営業を再開し、おにぎり2個の災害支援者弁当も手掛けた。また、被害のなかった新潟地区七社の駅弁屋が協力し、山形県米沢経由で仙台方面に食料の供給をしたり、四月一五日には新潟市内にある五箇所の避難所に駅弁を寄贈したり、高崎地区の駅弁屋もJRと共に支援活動をしたりするなど、支援活動の輪は広がりを見せていく。首都圏においては、JR東日本の子会社である日本レストランエンタプライズ(NRE)の主催で、四月一六日、一七日の2日間、JR東京駅構内「駅弁屋旨囲門」で「がんばろう、東日本。」東日本大震災復興支援駅弁大会が開催された。大震災で最も被害を受けた宮古駅「いちご弁当」の復活を含め、東日本を中心に各地の駅弁を約九十種類取り揃え、売上金の一部を義援金に充てようとしたのである。そして、五月初旬まで引き続き小田原や横浜、船橋、八王子その他の駅で開かれた復興支援駅弁大会では、実際に売上金の一部三百万円が東日本大震災の復興支援の義援金として寄付された。その後も東京駅や山形駅などで支援のための「東北応援駅弁大会」が開催されている。

 さらに、日本鉄道構内営業中央会では、六月に予定していた東京での総会を、東北地方を応援する一助になればという理由から、急きょ福島県郡山市で開催することにした。また、総会に合わせて福島第一原発周辺などから大勢が避難していた郡山市の避難所「ビッグパレットふくしま」の被災者を対象に、全国の駅弁屋二十社以上から持ち寄った駅弁約千七百食を提供したという。まさに、戦時下の苦境にも耐え、百年以上の歴史を刻んできた底力を感じさせる、すばらしい駅弁屋たちの取り組みであったと言えよう。

 と、ここまでは復興支援に向けて頑張る駅弁屋を称え、威勢の良いことばかりを書き綴ってきた。が、現実には東日本大震災が被災者に残した爪痕は想像以上に深刻であり、その傷はそう簡単に癒され、復興できるものではない。それは特に東北地方の駅弁屋にとっても同じことで、工場の損壊や売上の激減など、決して楽観できる状態でないことは、疑いのない事実である。東北から海を隔てた北海道、函館駅弁みかどの工場と事務所でさえ、津波で床上浸水の被害を受けたとのことである。さらに、東北から遠く離れた長野県の中津川駅弁、安藤商店梅信亭弁当部では、大震災による全国的な自粛ムードの煽りをもろに受けてしまった。行楽客激減による構内販売の減少に加え、主力であった「特急しなの」の車内販売弁当の積み込みが激減したのである。創業一九〇三年の老舗であったが、やむなく四月二十日をもって駅弁の製造販売から撤退することになってしまった。ここも大震災の被害者なのである。

 茨城県大洗町は、大震災当日のテレビ映像で津波に呑み込まれる何台もの自動車が、衝撃的に映し出された被災地である。ここを走る鹿島臨海鉄道大洗駅にも駅弁があり、万年屋(こうじや)という駅弁屋が存在する。ここの社長さんとは二〇〇三年以来、手紙やメール、直接お会いするなどして親交を重ねてきた。大震災の二ヶ月前には前年に水戸駅で消滅した「印籠弁当」が大洗駅で復活したと伺って、何度目かの工場訪問をした場所でもある。

 大震災のその日、高台にあった工場だけは何とか難を逃れたものの、ご自宅が被災し、失意に暮れる中、その翌日未明に役場から三千人分の食事を要請されたという。急きょ取り寄せた大型発電機で炊飯器を動かし、トラック2台のライトが照らす深夜に手作業でおにぎりを作り終えた。その後も五日間にわたって避難所の食料を作り続けたとのことであるが、その献身的な姿勢には本当に頭が下がる。

 実は「万年屋」という屋号は、一九九九年の東海村臨界事故により、風評被害で閉鎖に追い込まれた、奥様の実家である旅館の屋号だそうである。今回の大震災においても風評被害や自粛ムードの影響を受け、特に観光客向け弁当のキャンセルが相次いだ。二十年前に脱サラ、起業して以来、経営的にも最大のピンチを迎えているという。しかし、何かの縁なのか、四月からは今回の大震災で壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町出身者で、家族も奇跡的に助かったという新卒者を迎え入れることになり、社員一同が涙を流しながら危機を乗り越えようと誓い合ったという話を伺い、私も感動せずにはいられなかった。

 大震災の二ヶ月前、私は八戸から仙台まで、八戸線や三陸鉄道、山田線、気仙沼線などを乗り継いで、三陸海岸を列車で旅していた。リアス式海岸と海の美しさに見とれながら、四年前の夏に踏破した片道四百qの旅が忘れられず、今度は冬にということで出た旅だった。車窓のお供には、駅弁ファンから「幻の駅弁」と賞賛される久慈駅「うに弁当」。四月から十月まで売られる期間限定のはずだったが、一月に、しかも無予約で買えたのは本当にラッキーだった。三陸鉄道の車内でさっそくいただくと、濃厚な味わいと、ふんわりとした食感。この駅弁を目的に再び三陸海岸へ来ても良いと思わせるほどの逸品である。三陸の海は冬でも夏のように明るく、海がキラキラと美しく輝いていた光景は、今でも忘れることができない。

 それが、大津波に呑み込まれて路線がズタズタに断たれてしまった。大震災五日後に三駅間だけ再開した三陸鉄道「復興支援列車」は希望の光を灯したものの、全線復旧には相当の期間とお金がかかる見込みだと言われている。JR八戸線の階上〜久慈も、未だ復旧の目途が立たず、鉄道路線上「陸の孤島」と化してしまった久慈駅の売店から、「うに弁当」も当然のことながら消えてしまった。その後、四月下旬には奇跡的に復活を果たしたということであるが、順調に復旧工事がなされたとしても数年は待たなければならない状況であり、それまで久慈駅「うに弁当」が売り続けられるかどうか、どう考えても厳しい状況にあることは間違いない。

 大震災から三ヶ月後の六月、私は常磐線の亘理駅から列車代行バスに乗り、原ノ町駅に降り立とうと考えていた。駅弁を手掛けるロイヤルホテル丸屋(駅弁の調製は丸屋弁当部)が営業を再開したと伺ったからである。しかし、それは最終的には断念せざるを得なかった。当初は宿泊することも考えていたため、事前に電話で連絡をとってみた。すると、駅弁に関しては調理責任者が福島第一原発に近い避難指示区域に住んでいたため、現在は遠方での避難生活を強いられており、とても職場復帰できる状況にないとのこと。食材の調達もままならないので、駅弁は暫く作れないという。仮に、最も被害の激しかった常磐線の新地駅やその周辺路線が早期に復旧し、仙台まで繋がったとしても、駅弁の需要はそれほど期待できないであろう。沿線にある福島第一原発の事故処理が完全になされ、常磐線が上野まで全線復旧して客が戻り、駅弁販売が再開できる状況になるまでには、なお一層の時間を要する見込みとのことであった。

 原ノ町駅のある南相馬市は人口七万余。しかし、この大震災で五百名以上の尊い命が犠牲となり、大津波では六千棟以上の家屋が全半壊した。震災直後は住民の緊急避難が相次ぎ、一時は人口が一万人程度までに減ってしまったという。放射線量が低下し安定してきた六月下旬現在、人口は三万人程度まで戻ったとの情報もあるが、町は活気を失い、雰囲気は沈んでいるというホテルの方のお話であった。要するに、南相馬市(原ノ町駅)では、とても駅弁どころではないというのが現実であり、まさに非常事態なのである。

 大震災で再認識した「心のふるさと」

 私は常々、駅弁の本質は旅情であり、郷愁であると語り続けてきた。旅の途中で、列車の窓から見える風景もおかずにしながらいただく駅弁は、旅情を掻きたてるスパイスになりうるものだと信じている。と同時に、その土地ならではの食材が詰まった駅弁を食することは、たとえそれが現地から遠く離れた都会の駅弁大会で購入したものであっても、疑似体験として、旅の雰囲気を味わうことができるものだと実感している。そして、それがたまたま郷里の駅弁であるならば、郷愁を誘うこともまた、あるはずである。私は、駅弁の魅力とは、どこの駅弁が旨くてどこが不味いか、星が幾つ付けられるかなどという、単にグルメとしての価値だけで語られるべきものではなく、日本人なら誰もが持ち、そして憧れる「心のふるさと」を刺激するものとして語られるべきではないかと思っている。

 では「心のふるさと」とは何なのか。それを考えるとき、大震災を経験して初めて気づいた(思い出した、と言った方が良いかも知れない)ことがあるので以下に書いてみたい。それは私の場合、普段なら見落としがちな、何気ない日常の風景の素晴らしさであったり、ゆったりと流れる時間に身を任せながら、自然に、そして平和に、安全に過ごしたりしていくことの大切さ、ありがたさ、さらに、日々の生活に対する反省であった。大震災当日の夜、二ヶ月前に訪れたばかりの三陸海岸や大洗の惨状をテレビで目の当たりにして思ったことは、無念さ、悲痛さや恐怖感はもちろん、無力感、人間存在のはかなさ、すなわち「無常」という道理に改めて気づいたことだったと思う。

 その後、計画停電が夜に巡ってきたとき、不自由さの中で、電気の大切さが身に染みて感じられた。蝋燭一本に頼るしかない無力な存在として夜という闇と向き合い、侘びしさ、情けなさを感じた一方で、真っ暗な街の上で輝く月は意外に明るかったこと、活動する人間が少ないと夜は本当に静かなのだということにも気づかされた。そして、夜が明けて太陽からふりそそぐ光は恵みであり、野山に咲く花や、梢でさえずる鳥の声もまた美しかったのだということを新鮮な思いで発見した。そして、口に入る一滴の水、ご飯の一粒に至るまで、はかないからこそかけがえのない存在である、感謝しなければいけない、と気づかされたのである。普段は慌ただしく時間に追われ、人波に飲まれ、あくせくと余裕のない生活をしているので、こんな当たり前のことにも気づかなかったのであろう。忘れてしまっていた大切なことを思い出し、取り戻したような気がしたのである。無常観を経て感謝の念へ辿り着いた、とでも言おうか。おそらくこの気づきは、私一人だけではなかったはずである。つまり、大震災という突発的な日常の剥奪体験によって、私たちは無力感に押しつぶされ、不便さを強いられた。しかし同時に、忘れかけていた日常の生活と向き合う機会を得て、感謝する気持ちが芽生え、人間らしい自然な在り方に回帰しようとしていたのであろう。

 大震災を経験しての気づきと駅弁の本質とを結びつけるのは忍びない気もするが、ある意味で駅弁も小さな「脱日常」である。駅弁が「ハレ」の食事であると言われるのも、旅という日常から離れた場面で食べる特別な食事だからなのである。そしてその食事に私たち日本人が「心のふるさと」を感じるのは、「郷愁」という回帰と、「旅情」という発見とが詰まっているからなのではないだろうか。なるほど、駅弁にはどことなく懐かしい「おふくろの味」と、その土地ならではの発見を伴う食材が、確かに詰まっているのである。

 大学時代に少しばかりかじった心理学の世界で、私は回帰とは、究極的には母胎への郷愁であり、発見とは母胎から外に生まれ出た個体として周囲を見、その経験を自分に取り込んでいくことであると理解した。安全な母胎から出ていくことは危険を伴う冒険であり、だから不安がつきまとう。旅もまた冒険の一種であるので、発見や新鮮な思いは「旅情」として、不安な思いは「旅愁」として認識されるのかも知れない。そして「郷愁」とは、現実的には生まれ育った土地への愛着であろう。物心着いた時には見ていた当たり前のような空や海、山、街。そこで実感できる安心感や恵みは、郷愁の源として「心のふるさと」になりうる。私たちが旅行先で、駅弁大会で、価格的には高いと思いながらも駅弁に食指を伸ばしてしまうのは、「心のふるさと」に繋がる.旅情や郷愁を意識的に、あるいは無意識的に求めているからだと思う。コンビニ弁当に求めても決して得られない魅力が、駅弁には存在するのである。

 駅弁は「心」の文化

 先ほどは計画停電で電気の大切さを知ったと述べた。大げさな言い方ではあるが、東日本大震災で私たちは文明社会の有難味を改めて実感したのである。その一方で、「無常」にも繋がることであるが、物質文明がいかに脆いかということをも思い知った。電気が来ないというだけで、テレビや冷蔵庫、洗濯機など、ふだん恩恵を受け続けてきた文明の利器、電化製品は一瞬にして、ただの邪魔な箱になってしまうのである。自動車もガソリンがなければただの粗大ゴミとなってしまう。テレビの映像で見た被災地での瓦礫の山の光景は、このように「モノ」の文化がいかに虚しいかということにも気づかせてくれたのである。

 「モノ」が当てにならないとなると、何が確かで、拠り所となるのであろうか。それは最終的にはやはり、先述したような何気ない風景の美しさを感じたり、感謝したりする気持ち、すなわち「心」そのものに帰ってゆくしかないのではないだろうか。ありきたりな表現かも知れないが、未曾有の東日本大震災を経験した私たち日本人は、これを教訓として「モノ」の文化よりも「心」の文化を大切にしていかなければならないのだと思う。

 私は「心のふるさと」を呼び覚ます駅弁には、食べた個々人の腹を満たし、心も満たして元気にさせるだけでなく、駅弁のテーマとなっているその土地全体を元気づけるというパワーも併せ持つように思っている。日本特有の伝統的食文化である駅弁には、「心」の文化の要素が詰まっていると考えるからである。時として駅弁が町おこし、村おこしに利用されるのも、地域色を前面に出した駅弁を開発することで、その土地への愛着や感謝の念を育て、その思いを共有し、一種のローカリズムを刺激することで、元気のなくなった地方を再び盛り上げる旗印となりうるからであろう。

 駅弁ファンなら誰もが知っている八戸駅「八戸小唄寿司」は、半世紀前の一九六一年に誕生した。当時、八戸駅は「尻内駅」と名付けられ、特急などすべての優等列車が停車する大きな駅であった。にもかかわらず、市街地からは外れた場所にあったためか印象が薄く、これといって八戸らしさを紹介する駅弁もなかったという。そこで、地元の商人、会社員などが集まった八戸をよくする会「八戸アイデア・グループ」が名物駅弁を作ろうと考案して生まれたのが、この「八戸小唄寿司」であった。調製を担当したのは老舗駅弁屋の吉田屋。「小唄」とは民謡の世界では有名な「八戸小唄」のことで、それをイメージして三味線の胴の形をした折り箱を使用し、三味線のバチを象ったヘラのようなナイフ(発売当初はわざと箸を添えなかったという)を付け、それで特産のサバと紅ザケを彩りよく配置した押し寿司を切り分けて食べるというユニークな駅弁であった。

 この駅弁が発売されるやいなや、折からの素人民謡ブームにも乗り、民謡「八戸小唄」と共に、瞬く間に駅弁「八戸小唄寿司」は全国にその名が轟いたという。一九六三年、横浜高島屋の駅弁大会に実演出品したところ、飛ぶような売れ行きを記録し、一気に有名駅弁の仲間入りを果たした。さらにその数年後に実施された全国駅弁コンクールでは、堂々の一位になったということである。この駅弁が有名になったことで、八戸は民謡だけでなく、海の幸が豊富な港町としても全国的に注目され、ウミネコの繁殖地でもある天然記念物の蕪島や種差海岸などへの観光にも好影響をもたらしたであろうことは想像に難くない。「八戸小唄寿司」は現在も八戸の名物駅弁として現地で売られており、運が良ければ東京駅の駅弁売店でも買えるほどにまでメジャーな駅弁となった。

 平成時代になると、町おこしに駅弁を利用しようという動きが活発になり、官公庁、学校、駅弁屋が協働して開発する、いわゆる産官学コラボの駅弁が各地で誕生した。仙台駅の仙山圏創作駅弁シリーズや箱根西麓の野菜を使用した三島駅の駅弁、小田原地区の高校三校が主導で開発した駅弁などがその例であろう。また、富士宮駅「富士宮焼きそば」や甲府駅「甲州とりもつ弁当」、山形駅「いも煮弁当」など、地元のB級グルメやご当地グルメを生かした駅弁も次々と誕生し、好評を博してきただけでなく、実際にその町の活性化にも役だっているようである。

 圧巻なのは肥薩線の駅弁である。奇しくも東日本大震災の翌日、二〇一一年三月一二日に全通した九州新幹線鹿児島ルート。その七年前の二〇〇四年には、新八代から八代海や天草灘という海側を経由して鹿児島中央まで部分開業した。この時、誰もが山岳迂回ルートである肥薩線は、閑散路線として衰退の一途を辿ると予想したことであろう。ところが意外にも、予想は良い意味で外れたのである。今や九州の新しい代表駅弁となった新八代駅「鮎屋三代」や嘉例川駅「百年の旅物語かれい川」がこの時に誕生し、「いさぶろう」「はやとの風」「SL人吉」などの観光列車の運行も手伝って、衰退どころか観光路線として脚光を浴び、肥薩線やその沿線を観光地として甦らせることに成功したのである。その後、風前の灯火だった人吉や吉松の既存駅弁が盛り返しただけでなく、一勝地、真幸、霧島温泉にもご当地駅弁が生まれた。言うなれば「駅弁本線」と呼んでも良いと思えるほどに、肥薩線の駅弁開発は当たったのであった。そして、ローカル赤字路線や村おこしに絶大なる効果を発揮したという成功例として、全国の手本となったのは周知の事実である。最近では肥薩線に続けとばかりに、生き残りを賭けて駅弁開発を、その客寄せの起爆剤にしようとする中小ローカル私鉄も増えてきたほどである。

 このように、町おこしの駅弁開発が注目され、成功している背景には、駅弁に「ふるさと」そのものや「心のふるさと」を見いだそうとする人々の志向性が存在しているように感じられる。その意味において、折り箱の中に地方の味を盛り込んでいる駅弁は、日本人の「心」も詰め込んでいる「心」の文化なのであろう。

 駅弁は大震災の復興に寄与するか?

 こじつけだと言われてしまえばそれまでであるが、駅弁が日本人の感性に響く「心」の文化ならば、東日本大震災で被災した地域の復興に関しても、駅弁が果たす役割は、少なからずあるのではないかと思えてくる。実際、久慈駅「うに弁当」が二〇一一年四月末に復活したとき、NHKを始めマスコミはその朗報を全国に発信したと伝えられている。が、たかが駅弁の話題でなぜそんなに大きく報道したのかと言えば、やはりマスコミ各社が復興への希望となるようなイメージとして、駅弁を捉えていたからなのであろう。単に「ふるさと」のシンボル的な存在としてだけではなく、「心のふるさと」にも繋がる旅情や郷愁を喚起する存在であるからこそ、駅弁は被災者にとっても、そしてそこを訪れるボランティアや、通り過ぎる旅人にとっても、なくしてしまってはいけない大切な存在として捉えられている。また、それを食べることで復興への想いを強くするような、魂を揺さぶるソウルフードとして捉えられているように、私には感じられるのである。

 東日本大震災から三ヶ月後の二〇一一年六月二六日、私は気仙沼駅に降り立った。今回の大震災では気仙沼湾一帯の町の中心部が大津波や火災で壊滅的な被害を受け、千人を超える死者、行方不明者を出したと言われている。実際に被災地を訪れてみると、まだ瓦礫の山という感じで、船は陸地に奥深く乗り上げて放置されたまま。道端には廃車となった自動車が大量に積み上げられ、南気仙沼駅は廃墟と化し、線路はぐにゃりと曲がったままであった。建物の立地はちょっとした起伏のあるなしで、天国と地獄とが分かれていたように思えた。亡くなった方々には心より哀悼の意を表すと共に、被災された方々には改めてお見舞い申し上げ、早期の復興を願わずにはいられない。

 当然のことながら、気仙沼駅にそれまであった「纜(ともづな)弁当」や、安くて旨いという評判だった「黄金龍のハモニカ飯」など、気仙沼観光コンベンション協会お弁当サプライヤー委員会がプロデュースした名物駅弁はすべて消えてしまっていた。大震災で調製元が被災し、さらに食材となる海産物を扱う水産会社が壊滅的な打撃を受け、とても駅弁販売をできるような状況にはなかったからである。しかし、復興への願いを込め、五月になってから震災後初の製造・販売となるお弁当サプライヤー委員会プロデュースの新商品が出された。その名も「気仙沼想い弁当」。気仙沼駅弁を手掛けていた「いこま気仙沼給食センター」が中心となって、週替わりでメニューが変わる三五〇円のお弁当の新発売であった。

 この「気仙沼想い弁当」は、プラ容器にシールが貼ってあるだけの質素な弁当で、厳密には駅弁ではない。しかし、実際に食べてみて、駅弁に勝るとも劣らない想いがこもっているように感じられた。シールには弁当名の他に「地元復興まで、負けない折れないくじけない! 人の心の痛みを忘れず、地元想いのお弁当でありつづけます。懐かしい味。手づくりしたのは、いつも変わらぬおいしさと優しさ。」と書かれてあるだけ。しかし、その一字一句が心に響くのである。

 この日のメニューは椎茸ご飯に焼きそば、えび天、鮭焼き、磯辺風つくね芋串など。できたてで温もりのある、どこか懐かしく、本当に優しいお弁当であった。五月にお弁当サプライヤー委員会のブログでこの弁当画像を初めて見たときには、魚市場がまだ本格的に復活していなかったため、海産物があまり入っていないというような印象を持っていた。むろん今回も入っていないだろうと想像していたが、少しずつ流通が戻りつつあるのか、この日は海の幸のおかずも見られた。今後は三五〇円の他に、五〇〇円のものを売り出す予定があり、その先にはきっと駅弁復活もあるはずである。キヨスクの店員に聞くと、売り上げは好調で、毎日昼頃には仕入れた一〇食が売り切れていることが多いと答えてくれた。嬉しかった。

 また、先述した茨城県の大洗駅弁「万年屋」でも、六月末現在で復興復旧工事関係の仕事に全力を入れているそうである。社長さんからは「皆と一緒に元気が出るよう、漁協、観光と連携事業を立ち上げ商品名を統一した町おこしを県へ申請中です。新作が出たらお知らせします。」という知らせをいただいた。

 こんなお弁当や復興事業の存在を知ってしまうと、駅弁は、そして駅弁屋は、震災で負けそうになった被災者の心に染み入り、きっと復興に寄与するのであろうと思えてくる。そして、私はそんな駅弁を、そして駅弁屋を、無性に応援したくなるのである。

二〇一一年七月


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