[写真・上]ビン入りウーロン茶。たぶん最初で最後の“センヌキ体験”を満喫。リバイバル列車に乗ったとき必ず企むも、今じゃ貴重なビン入り飲料、スーパーやコンビニにありゃしない。酒屋さんにもありゃしない。とても粋なことをしてくれたJRに感謝!!
[写真・右]電光案内表示板。画像は鳥取。こちらも大阪地区主要駅でよく見る初期タイプ。各停車駅の案内表示の中で一番丁寧だったかもしれない。
…あれから半月、もう0時台の鳥取駅に案内表示は無い。一日の最初と最後の列車として、“JR山陰本線
浜坂・豊岡方面”に燦々と輝いていた『だいせん』は、もういない。
出雲車両支部(米イモ)の車両展示会にて
10月10日、出雲は雨。晴れていたら出雲大社への参詣や日御崎観光を予定していたのだが、そこまでは無謀と判断し旧大社駅訪問と旧大社線探訪に切り替える。
濡れないように傘を調達し日御崎行バスで旧大社駅へ。出雲大社直行ルートだったので、一番近いバス停で下車し徒歩で目的地へ。しかし、朝早いせいかまだ開いておらず、団体改札口跡から構内に入り屋外展示物のSLを眺めつつ暫し休息。約1時間経って少しざわざわしてきたなと思ったら、何やら道具を持った人達が…そうやっと開いた旧大社駅。何時見ても荘厳な雰囲気だが何か今までと違う。よく見てみると、遠く昔貴賓室だった場所がなんと喫茶室にチェンジ!程無く馴染みの客と思われる男性がそこに入室し、モーニングセットを頼みつつ“店員”の女性と話に花を咲かしていた。
雨が少し止み始めた10時前、今度はタクシーやら自家用車やら観光バスやら来て騒がしくなる。どうやら団体がいくつか来た模様。雰囲気が会わなくなってきたので、その場を後にして今度は廃線跡巡り。閑散としていて物静かな旧大社駅が私は好きなので、思わず溜め息。そんでもって、デジカメ代わりの携帯電話がおかしくなり画像をたいして残せず、かなりブルーになってしまった。そんな気分で駅から暫くは廃線跡を利用した広い道を南下。途中某大学の旗や走り去る選手を見かけ、翌日はここで全国規模の駅伝があることを知る。本当に速かった…自転車でも追いつけないわけだ。
約1.5qは歩いただろうか、この広い道は突然細い道とのT字交差点で終わる。その先には1本の砂利道が…これこそ旧大社線廃線跡そのもの。しかし、また雨風とも強くなり始め足も棒のようになってきたため、ここで廃線跡歩きは断念し終了。近所にあるバス停から出雲市駅に戻る。
駅に戻ると車両展示会の案内と臨時直通列車が。かなりの土砂降りになっていたため、「ほんまにやるんかいな」と思いつつ、西出雲までのきっぷを買い列車に乗って車両展示会へ。雨が酷過ぎて、2時間の滞在の内雨宿りが4分の3を占めた。新旧の『だいせん』を画像に残すのが精一杯で、一緒に展示された『やくも』『サンライズエクスプレス』『出雲』まで余裕は無かった。
車両展示会から出雲市駅に戻った私の体はボロボロ…右足と左足の踝のあたりがズキズキ痛む有様。そのまま復路『(懐かしの)だいせん』を待合室で過ごす。
20時2分、そそくさと列車は出雲市を発車。鳥取で降りて旅は終了。
↑旧JR大社駅全景。大正モダンな一畑出雲大社前駅もいいが、こちらも古風で落ち着いていてまたよろし。晩年の大社線はキハ40の単行が2時間ネットでピストン運転していたらしく、発着は本屋側1番線のみで2,3番線は荒れ放題(そんな2,3番の出雲市寄りにSLが静態保存…と言うより放置。)。
10月9日4時、三ノ宮駅。そう『但馬』のきっぷをとった思い出の地。ダメだった…。友人に頼んで購入してもらっていた京阪神おでかけパスで、幾つかの駅のみどりの窓口を回るもダメ。南限の和歌山まで行ったがそれでも無理で諦める。その後駅弁を買って朝飯をとっていると友人達からドタキャンメールが!余った彼等の分をネット上にかけ再度募集するも音沙汰無し。12時にJR難波駅に返す。
発車まで残った時間を弁天町の交通科学博物館と久しぶりの和田岬線で過ごし、いよいよメインイベント『(懐かしの)だいせん』へ!何故そんなに思い入れがあるのか?それは学生時代かなり御世話になったから。99年秋までの客車時代で3回(指定席1回)、その後の気動車時代で約15回、鳥取への帰省によく利用した下り『だいせん』。『はまかぜ』が3+2回、『エーデル鳥取』が1+1回(両列車共、前者下り後者上り)、『つやま(グリーン車)』が2回に比べるとはるかに多い。『スーパーはくと』や高速バスは上り中心で下りはあまり使ってない、ひねくれた私…(^o^;)さすがに臨時『はくと』(91号。大阪→鳥取。キハ181系。)は乗ったけどね、もちろん指定席…。それ故に久しぶりに大阪駅で見たDD51牽引の客車編成には感涙。その足で地獄の撮影現場を抜け出し記念駅弁を仕入れて自分の席へ。そして落ち着いた頃、自分の携帯電話から「冬模様」のメロディが。そう21時15分、たくさんのフラッシュを浴びながら発車。
福知山までは『だいせん』とは無縁だった光景がそこに。定期便では、自由席はまだしも指定席は半分埋まっているかいないか。それがこの臨時便はほぼ満席…。普段からそれくらいの人が乗ってくれていたら、スジに止めを刺されることはなかった。18きっぷの時期に運転されるムーンライトシリーズとか『北近畿』の最終便で残ったろうに…。
さすがに福知山を過ぎた真の“廃止区間”に入ると静かになった。そりゃ夜中だもの。ちなみに7号車16番のボックスは、B席に一般の男性とD席の私だけ。つまり、返した3席の内A席とC席は誰もおらず、お互い足を延ばして熟睡。それから約2時間半後、何かしらどよめきを感じうっすら目を開けると…餘部鉄橋。今後『出雲』か『はまかぜ』(5号)にでも乗らないと見えない夜景に。その後長時間停車の鳥取駅で大撮影会になったのは言うまでもない…。
鳥取辺りから外は雨模様。土砂降りの中出雲市に到着し、往路終了。
[写真・上]大阪駅にて。御覧のとおり凄い人で、尋常では無い。現役時代を知っている身としては、この盛り上がりはかなり違和感あり。
[写真・中]電光案内表示板。画像は米子。大阪地区主要駅でよく見る初期タイプ。私はこっちの方がカクカクして見やすくて好きだ。
[写真・下]真夜中の鳥取駅にて。外部からの人は全くおらず、約25分もの停車時間があったため、まるで、乗車客のために用意された“列車撮影会”に。来月あたりの鉄道雑誌に、ここで撮られた『懐かしのだいせん』の写真が載ることでしょう。
[写真・左]土砂降りの中、出雲車両支部(米イモ)の車両展示会にて。
今まで遠征できる範囲でリバイバル列車に乗ってきた
(御世話になったキハ58・28系への惜別4回、
キハ181系への惜別1回)が、今回程思い入れが深く
また不覚をとった列車は無い…。
実は8月8日には知っていた、『だいせん』の廃止と
それに関した鉄道の日記念での客車復活運転。それは
友人達が何処からか仕入れた話で、えっ…という衝撃
が体中に走る。その時脳内では、「帰ったら速攻で申込書出しちまいな!」という声と「ちゃんと正式発表まで待たなあかんで。」という声が闘っていたが、結局後者が勝ち交通新聞で改めて知る。そして仕事帰りに近場にある3つのみどりの窓口に指定券申込書を出して予約、友人達にもメールを打ちきっぷ確保を依頼。
こうして時は過ぎ、運命の日9月9日,10日。10時から昼休憩まで携帯電話の電源を入れるも連絡無し。その後留守電にも入っておらず、11日に窓口にまとめて聞きに行くと…
「すみません。両方共ダメでした。」「(T_T)キャンセル待ちお願いします。」
やはり友人達と行くためにボックスを頼んだのが原因か?自分1人だったらとれたのか?そんなこと考えたがそれどころじゃない!その足でバスターミナルへ出向き、三ノ宮行の夜行高速バスを押さえる。発車は夜なので今までのように朝早く関西に出る必要は無いのだが、最悪のシナリオ回避の切り札“当日キャンセル”に備えて。『白兎』『但馬』に乗れたこれを無視するわけにはいかない。幸いにも今回は余裕でバスチケット確保。何故気にしたって?それなりに有名になってきたこの“日本一安い夜行バス”、10月の三連休満席の可能性があったから。昨年3月8日の『わかさ』は夜行高速バスがとれず当日キャンセルを諦めて、翌日ひたすら18きっぷで移動し敦賀で記念駅弁だけ入手した、ほろ苦い経験が…。
どんなに時が立とうが朗報は来ず、でも奇跡を信じてネット上で公言!そんなある日、とある知人からメールが。
「往路1ボックス余ってしまいました。もし記念駅弁の掛紙を下さるのなら、定価で御譲りします。」
何っボックスある!?記念駅弁掛紙あげるのは惜しいが、都合悪く行こうにも行けないのだろう。んなば、その話乗った!てな理由で交渉成立。その後代金を送り、寸前にきっぷを入手。とりあえず自分と友人3人分を確保。
ちなみに復路は、自分含めてなんとか2人分を、席は離れたが市場から調達。そんな状況にも関わらずさらに募集した儂の自信って…(-.-;)